「毒親」という言葉では、説明しきれない母のこと——「知ること」と「わかること」

「知ること」と「わかること」は違う。

僕は、ずっとこの違いが気になってきました。

「知る」とは、何かの情報を頭の中に置くことだと思っています。

一方で「わかる」というのは、もう少し深いところで起こる出来事です。それはときに、理解というよりも、避けがたい感触や痛みに近いものを伴って、こちらの側に入り込んでくる。

僕には、そんなふうに思えます。

僕は発達障害の当事者として生まれました。そして僕は母から虐待を受けて育ちました。今の言葉で言えば、母は毒親だったわけです。

この事実は、僕の中では、いまだに、きちんと言語化できている部分と、まったく言語化できていない部分とが混在しています。

ですが、僕が歳を重ね、母がこの世を去った後、ひとつ、知ったことがあります。

今日は、こんな話を、置いていきたいと思います。

母の過去について

母は生前、過去についてほとんど語りませんでした。そうしたこともあり、僕の中で母は、身体性や情緒を持つ人間的な存在というよりも、毒親という言葉で表される記号として長らく存在してきました。

それはもしかしたら、子供だった僕が、自分の心を守るための方策だったのかもしれません。

中年になってから僕は、自分のルーツを調べることに、のめり込みました。出生地の役所に戸籍を請求し、制度上、直系親族に権利として認められているラインのめいっぱいまで、祖父や曽祖父、高祖父といった人々の戸籍をはじめとした資料を取り寄せました。さらに実際に現地を訪れ、図書館で民俗資料を調べることもしました。

その過程で僕は、ずっと知ることがなかった、母の「物語」を知ることになりました。

母が4歳のとき、一家の大黒柱だった父親が死にました。1945年4月。それは太平洋戦争の最終局面である、フィリピン・ルソン島の戦いです。

軍属(工員)として派遣されていた母の父親は、その悲惨な戦いの中で死にました。もともと病弱であったと思われる母の母親も、夫の後を追うように程なく他界しています。そして4歳だった母は「後見開始」となったことが資料から読み取れました。

大人たちのそれぞれが事情を抱え、それぞれが正しさを主張するなかで、
何も主張できない存在は、無抵抗に、そして無慈悲に、話の外側へと押し出されていった。そんな光景だったのではないかと、想像しています。

そうした錯綜を経て、おそらく口減らしのためだったのでしょう。生まれてからずっと、のどかな田舎町で暮らしていた4歳の少女は、故郷から遠く離れた都会へと、たった一人で里子として送られることとなりました。少女の兄が長じて働けるようになるまでずっと、少女はその都会で過ごしていたことがわかりました。

僕の知る限り、母は決して、その頃のことを口にしませんでした。僕がそのことを訪ねたことはあったかもしれませんが、いつも話題を変えていましたし、その頃の写真も一切、残されていません。

以上が、僕が母について「知ったこと」です。「知る」ことによって、僕の中にどのような変化が起こったのか、僕はまだ言語化できていません。しかし何かが「変わった」、ということだけは言えるような気がしています。

もしかしたら、僕の中で母は、はじめて「記号」から「人間」になったのかもしれません。

もちろん、だからといって、母が僕にしてきたことが、なかったことになるわけではありません。

母を許す、とか、自分の中の感情を昇華させる、とか、
そうした単純な言葉では表現できない思いが、僕の中にあります。

個人の苦しみは、
地続きで、
歴史の断層の上に生じることがある。

などとも言えるし、あるいは別の言い方も
あるのかもしれません。

このことを通して、僕が一つ分かったことがあります。
それは、
人は、誰かが自分と地続きの存在であることをわかってしまったら、もう、その存在を記号のままにしておくことはできなくなる、ということです。

僕がいずれ、母のことを「わかる」日は来るのだろうか?「わかった」として、その時、僕はどう変化するのか?僕は、こんなことを自分に問い続けています。

この話が、
誰かにとって
自分の人生を考える
ひとつの材料になれば。

そんなふうに、思っています。

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