なぜ体罰はいけないのかを、人間の不完全さから考えてみる

なぜ体罰はいけないのか、ということについて、考えてみます。

いろいろな理由が挙げられるけれど、僕はそれを、人間の不完全さという一点に集約して考えています。最初にお話しておくと、僕は体罰には反対の立場です。

体罰について話すために、僕は今回、2つの話をします。一つは「体罰が許されない社会は逆に不幸な人を増やしているのではないか」という視点に基づく話。もう一つは、僕自身が体験したことです。

まずはじめに話すことは、最近、ネット上で目にした、現場労働の世界で経営者や現場責任者を担っている人々が議論する様子を収めた動画でした。

その方たちの主張は次のようなものです。

なるほどな、と思いました。現場で向き合っている人にしか見えない景色があるのだろう、ということも、僕は否定したくありません。

次に、もう一つの話をします。これは僕が実際に体験したことです。

僕が小学生だったときのことです。当時、いじめを受けていた僕は、学内の音楽行事で皆がやりたがらない役回りを担わされました。僕は発達障害ゆえ、楽器の演奏は大の苦手。ですので指導教師から『個別指導』の対象とされ、毎日、音楽室に呼び出されて演奏の『特訓』を受けました。僕が演奏をミスするたびに、指導教師は長い物差しで、半ズボンを履いてむき出しの、僕の太ももを鞭打ちました。

僕の太ももは赤く腫れ、みみず腫れが浮き上がっていました。その時、僕の中にあった感情は言語として鮮明に残ってはいませんが、それはおそらく、自分に対する深い惨めさと、強い恐怖であったように思います。

僕が惨めさや恐怖を感じた理由は、暴力そのものだけではありませんでした。
それが「指導」や「善意」という言葉で正当化される過程で、彼の内側に生じていたであろう、制御不能な興奮や歪み――そこに、子どもに向けられるべきでない種類の感情が混じり込んでいることを、当時の僕は、はっきりとは理解できないまま直感してしまったのです。

その時の光景を、僕は今でも鮮明に思い出すことができます。言語としては鮮明ではないが、高解像度の映像として鮮明に僕の中に記憶されている。こうしたことは、おそらく僕に限ったことではないでしょう。発達障害当事者においては、何十年も前の記憶を、まるでビデオに録画したかのように鮮明に覚えているケースは、しばしば見られることだ、と聞いたことがあります。

僕はこの個人的な体験を「不幸(という語で仮に呼ぶなら)」や「悲惨(という語をあえて使うなら)」といった物語に帰結させるつもりは毛頭ありません。ただ一つ確かなことは、僕たち人間は、現時点において、こうしたことが起こることを完全に防ぐすべを持ち合わせていない、ということです。

どんなに素晴らしい人格者でも、どれほど優秀な人であっても、その人格や、優秀さは、うつろうものです。

うつろいのはじまりは、日常の継続的なストレスによるものかもしれないし、パートナーに先立たれたことがきっかけかもしれないし、あるいは加齢や、主義主張の変化か、最近の言葉で言えば、いわゆる「ミドルエイジ・クライシス」といったことも考えうるでしょう。とにかく、「うつろう」引き金は、枚挙にいとまがない。

うつろいは、年単位といった長い期間をもって生じるとは限りません。立派で高潔な人格の持ち主でも、体調が悪い日は、うつろい、そして、決して入ることを許してはならない領域に、決して入ってはならない感情が入り込んでくる。これは人間ならば、あたり前のことです。

今は誠実で優秀な人間だったとしても、ずっとそのままでいることはできない。というのが僕の人間観です。だったら、不幸な事態が起こることを最小限に留めるためには、人間の不完全さを前提にして倫理やルールを定める。それが現時点での人間にできる最大限の「あがき」なのではないか、と、僕は思います。

この考え方は、民主主義の理念や必要性に似ていると思います。第二次世界大戦中にイギリスの首相を務めたウインストン・チャーチルは、こんな言葉を残しています。

皮肉を好むイギリス人らしい言い回しだと思います。ただ、ちょっと直訳的でわかりにくいので、僕の言葉で意訳させてもらうと、次のように言えます。

「民主主義は最悪だけどさ、それ以外にないんだよ。これで我慢するしかないんだよ」

じっさい、民主主義には無駄も多く、問題点だらけです。民主主義なんか早々に止めて、「優秀で誠実な人」に独裁的な権力を与えて、政治を担わせるのが効率がいいに決まっている。そうすれば、あらゆる社会問題が速攻で解決され、社会の幸福度はみるみるうちに上がるのではないでしょうか。

でも僕たちは、これまでの歴史から、このやり方が、うまくいかないことを知りました。なぜか?人間は、うつろうからです。

話を体罰に戻します。現在の人間には、私欲を含めた自身のエゴを満たすために暴力を用いる者などの、特定のミッションには適さない個人を選抜過程で確実に除くことは不可能に近い。

だからといって、テクノロジーを活用することによって、そうした好ましくない個人を機械的に、かつ冷徹に選別して排除することができる社会は、果たしてユートピアなのか、それともディストピアなのか、僕には答えがありません。

ですので、現在の日本における「体罰は絶対に許されてはならない」という風潮は、「少なくとも現時点では最良の選択である」と言えるのではないか、というのが僕の考えです。

これは、僕達の社会において明白な罪として考えられている行い、たとえば「殺人」と似た構造を持っていると思います。日本では、どんな事情があれども、人を殺した者は逮捕され、起訴される。その手続きの過程において、行為者が持つ権利は制限を受けるのが普通です。

もちろん、人を殺すに至る「事情」や「背景」については情状という形で考慮はされるけれども、「人を殺した」という事実が、社会のルールによって裁かれることを免除されることはない。

このやり方は、問題も多い。もしかしたら、近代以前のように地方を支配する支配者層が「そういう事情ならしょうがないな。よし。お前は無罪」と、「大岡裁き」のように決められる世界のほうが、より柔軟であり、より人々は幸福になるのではないか、という考えもあるかもしれない。

いずれにせよ、体罰の問題を考えるとき、
僕はそこに、今の人間が抱えている限界点を見るのです。

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