ADHDとASD、双方の特性を併せ持つとは、どういうことなのか

僕は発達障害の当事者で、ASDとADHDの両方の特性を持っています。

日本においても発達障害の認知度は広がってきており、以前に比べれば、一般の人にも身近な概念になりつつあると思います。念のため説明しておくと、一般的な発達障害の分類は、ASD(自閉スペクトラム症)、ADHD(注意欠陥・多動症)、LD(学習障害)の3つであるとされます。

この3つのうち、メディアなどで頻繁に取り上げられるのは、ASDとADHDの2つだと、僕は感じています。発達障害にそれほど関心を持たない方でも、ASDとはどのような障害なのか、ADHDの人はどのようなことに日常の困難を感じるのか、といった、発達障害と生きづらさについて、ざっくりとしたイメージは持っているのではないでしょうか。

しかし、今回の記事で僕が説明する、
「ASDとADHDの特性の両方を併せ持つタイプ」については、まだまだ情報も少ないと感じています。

今回の記事では、ASDとADHDの両方を併せ持つ発達障害当事者として、僕が感じていることや、学んできたことを、言葉として置いていきたいと思います。これはあくまで個人の体験に基づく主観的な言葉であり、すべての人に当てはまるものではありません。

さまざまな観点からASDとADHD共存の問題をまとめてみる

このセクションでは、僕の実体験、およびAIに手伝ってもらってまとめた様々な観点から「ASDとADHDの共存問題」について説明をしたいと思います。なお、僕は一介の当事者であり、なんの専門家でもありませんので、このセクションで引用する学問的・研究的概念の詳細についてはわかりかねます。この記事を読まれた方にとって「何かを調べたい」と感じるきっかけとなれたら嬉しいです。

ASDとADHDが「打ち消し合う」のではない

まず、よく言われがちな「ASDとADHDが共存(併存・混在)すると、双方の特性が打ち消し合う働きをする」という考え方について。

これは少し、説明が必要かと思います。ポイントは「打ち消し合う」というのは、あくまで外から見える問題に過ぎないのであって、当事者の内側においては、脳の負荷や当事者が感じる困難は加算・乗算されている、という表現が妥当ではないかと思います。

まずはじめに説明のために、一般的に知られているASDとADHD、双方の特性が持つ障害をまとめたリストを示します。

ASD(自閉スペクトラム症)

  • 予測処理
  • 感覚入力の過剰精度
  • ルール・一貫性・秩序への依存
  • 社会的暗黙知の自動化の弱さ

ADHD(注意欠陥・多動症)

  • 実行機能(抑制・切り替え・持続)
  • 報酬系(ドーパミン調整)
  • 注意の選択と維持
  • 時間認知の不安定さ

なお、このリストが示す事実を専門的な言葉で言うと、ASDとADHDでは障害されている神経回路が異なる、ということになるそうです。

行動レベルでは「打ち消し合って見える」理由

次に以下は、ASDとADHDのそれぞれの行動について、他者から見た際に、「行動レベルではこう見える」をまとめた表です。

ASD(外から見える行動)ADHD(外から見える行動)
固定性気が散る
こだわり衝動性
ルーチン依存飽きやすさ

この対立する真逆の志向が同時に、一人の人間の中に共存している。すると、どうなるかというと、他人からは以下のように見られ、誤解をもとに判断されがちだ、ということです。

こうなると診断上のシグナルも相殺され、可視化されにくい状況が生まれてしまいます。

こうした、他者が当事者の行動を目にした際に受けるであろう印象は、実際に僕がこれまで生きて経験してきたことと、完全に一致します。

しかし脳内では「負荷が減る」のではなく「競合が起きる」

次に、以下はASDが持つ欲求と、ADHDの状態を対比させた表です。

ASD側の欲求ADHD側の状態
世界を予測したい注意がそれる
一貫性を保ちたい内発的報酬が安定しない
(長期的視野を持つことが苦手)
情報を精密に処理したい行動が中断される

この表の内容を文章にすると、

予測したい(予測しなければ不安で仕方がない)。
一貫性を保ちたい(一貫性がなければ落ち着かない)。
情報を精密に処理したい(そうしなければ気が済まない)。

にもかかわらず、

気が散って予測を続けられない。
一貫性を保てない。
情報を適当にしか処理できない。

これが、ASDとADHDが併存する当事者の、苦しさだと言えます。

なお、専門的には、このような現象は「中和」ではなく、「慢性的な内部競合(internal conflict)」と呼ぶそうです。

認知資源モデルで説明

「認知資源モデル」という概念があります。人間の脳には限られた認知資源がある、とする考えです。平たく言えば「脳が使えるエネルギーって限りがあるよね」ということです。この概念を用いて、ASD単独、ADHD単独、ASDとADHDが共存、これらにどのような違いがあるのかを説明すると、以下のリストで表せます。

  • ASD単独の場合
    • 社会性や感覚面での負荷は高い → しかしルール化・習慣化で負荷を下げられる
  • ADHD単独の場合
    • 注意維持が困難 → しかし柔軟性や切り替えで逃げ道がある
  • ASD & ADHDの場合
    • ルール化したい → 維持できない
    • 習慣化したい → 注意が崩れる
    • 整理したい → 実行が途切れる

このように、ASDとADHDが併存するタイプにおいては、負荷を軽減するための戦略が、互いに無効化されてしまっています。結果として、限りのある「認知資源」が常にリーク(漏出)し続ける、という考え方もあるようです。

これは僕も大いにうなづけることで、とにかく疲れやすい。過去には1日8時間以上にわたって、オフィスで仕事をしなければならない仕事に就いたこともありますが、言葉を選ばずに言えば地獄でしかありませんでした。そのような労働に耐えるだけのエネルギーが、僕には残されていなかったわけです。

主観的困難が大きくなる理由(内在化の問題)

これまで述べてきたように、ASDとADHDが共存するタイプは、外から見ると、

  • それなりに話せる
  • それなりに動ける
  • それなりに適応している

というふうに見えます。しかし当事者の内側では、

  • 常に注意を手動制御
  • 常に社会ルールを演算
  • 常に衝動を抑制
  • 常に失敗の予測を更新

といったことが起こっています。本来ならば自動化されて、負荷が減り、楽になるはずの処理が、すべて「意識的努力」を強いられるものになります。

専門家の中には、こうした状況が、慢性的疲労、抑うつ、燃え尽きの温床であるとする意見もあるそうです。

二重負荷が二次障害を生む

じっさいに、僕も20代の前半で「燃え尽き」、二次障害として双極性障害を発症する結果になりました。

近年の研究では、ASD&ADHD併存・混在型は、

  • 学業
  • 就労
  • 社会適応
  • メンタルヘルス

のすべてで、単独診断よりアウトカム(治療成果・結果)が悪い傾向が報告されているそうです

理由は単純で、

  • ASDの補償戦略がADHDで崩れる
  • ADHDの逃げ道がASDで塞がれる

から、だそうです。

これは個人的に、大いにうなずけるところです。たとえば、一般的に「ADHDの人は遅刻が多い」「ADHDの人は、創造的な仕事は得意だが、それ以外の仕事がいいかげん」といったステレオタイプのイメージがあります。もちろん、これらはADHDの多様さを無視したステレオタイプであり、生来の特性や後天的な努力によって、ADHDであっても遅刻をしない人も多くいることは間違いない。

でも、ここで僕が言いたいのは、ADHD単独ならば「いい加減でもいいんだ」、あるいは、「いい加減さが許される生き方を目指そう」といった、上のリストの言葉を借りれば「逃げ道」を模索できる可能性がある、ということです。

僕自身のことを話すと、僕は、自身の信念というか、自分に課す「掟(おきて)」として、絶対に遅刻はしたくない・してはならない、という価値観を持つ者です。この「掟」が僕を苦しめます。

なぜって、僕はADHDでもあるからです。だから、「掟」を守って生きるために必要な資質は備えていない。具体例をあげると、家でフライパンを磨くのに夢中になっていたら、すっかり待ち合わせの時間を過ぎていた、ということが普通にある人です。

重苦しい「掟」を投げ捨てて、「これくらい大目に見てもらおう」「いい加減でもいいんだ。遅刻したっていいんだ」という逃げ道をとることは、僕自身が、決して僕に許さない。

なので僕は、「掟」に従って生きるしかない。自分に鉄の規律を課して、自身に、くさびを打ち込んで生きています。具体的には、待ち合わせ場所には最低でも40分前、場合によっては1時間以上前に到着します。

もちろん、自分にくさびを打ち込むと、
痛いです。

なぜ「生きづらさ」が理解されにくいのか

ASDとADHDが共存するタイプは、

  • 行動が極端ではない
  • トラブルメーカーに見えない
  • しかし消耗は激しい

これは社会的に、「できているのに、何がつらいの?なぜつらいの?」という二次的否認を生みやすいとされます。これは当事者の苦痛をさらに不可視化する結果となります。

なぜ「共存タイプ」の認知が広がらないか――発達障害当事者のアイデンティティ

これまで話してきた、「ASDとADHDを併存する発達障害当事者」という社会的イメージは、少なくとも日本においては、まだまだ広がっていない、と僕は感じています。ここでは、この背景について、僕が感じていることを言葉にしたいと思います。

YouTubeなどの動画メディアにおいても、Noteやブログ、SNSなど、テキスト主体のメディアにおいても、「ASDとADHDが共存しているタイプ」の立場で発信する当事者は極めて少ないと感じています。殆どが「ASDの私が感じていること」、または報道であれば「タレントの〇〇、ADHDをカミングアウト」ですよね。

この背景の一つとして、「発達障害当事者として、特性をどちらかに限定することによってアイデンティティを固定したい、という欲求があるのではないかと、僕は感じています。

もちろん大前提として、発達障害当事者に対する社会的スティグマは確実に存在します。ですので、発達障害当事者のうち、表現・発信活動を行う人は、そもそも極めて少ない、という事実も抑えておく必要があるでしょう。

僕自身の話をすると、僕は48歳で発達障害の診断を受けました。診断を受けるまでは、発達障害については全く自覚することなく生きてきました。ですので、アイデンティティが揺らぎました。というか、正直に言えば、48年間にわたって「これが自分だ」と思ってきたアイデンティティが、「崩れ落ちた」と言ったほうが正確かもしれません。

このような体験をしてきたので、僕にはわかる気がするのですが、不安なのです。だから「ASD」か「ADHD」に「決めたい」のです。「どっちもある」などという立場は、アイデンティティにするには、とても不安定で、不安を煽るものです。

ASDかADHDのうち、どちらかに決めてしまえば、かなり楽になります。なぜか?それは、そうすることにより仲間を作りやすくなるし、障害に関係する情報も得やすくなるから、といった事情があるのではないか、と思います。

執筆、講演、YouTube動画、などで発信している発達障害当事者の大半は、たいてい、自身の特性をどちらかの特性に定めて表現活動をしています。そうした発信が、自身の不安を打ち消し、アイデンティティを確立するうえで大きな助けになるのかもしれません。

ここで少し脱線しますが、ここで承認欲求や商業主義の観点にも触れておく必要があります。YouTubeなら自身のチャンネルの登録者数や再生数が他者と相対化された「点数」として可視化されるし、SNSにおいても、フォロワー数や「いいね」の数などが同様に可視化され、「既成事実としての序列」が形成されます。

発達障害当事者に関わらず、大手プラットフォームに参加して、これら数値や序列を重視するなら、自身の特性は固定したほうが有利です。「刺激的かつ、わかりやすく刺さるサムネ」を追求すべし、となる。というか、「序列」を登りたければ、そうせざるを得ないように、大手プラットフォームはデザインされています。

話を発達障害に戻します。これまで見てきたように、ASD特性とADHD特性は、その苦しみの質も方向性もかなり異なるため、同じ「発達障害当事者」として一括りにするのは難しく、結果として「棲み分け」「分別」が生じる。僕はそのように考えています。

以下は、たとえとしては適切ではないかもしれませんが、例えば「犯罪被害者」という、特定の人々の集合体の概念があります。しかし、たとえば、帰宅途中に見ず知らずの若者から「オヤジ狩り」の被害を受け、ケガを負わされたあげくにお金を奪われた男性と、顔見知りの男性から性的暴行を受けた女性とを「犯罪被害者」としてひとまとめにすることは少々、乱暴だと言わざるを得ません。当事者としても「同じ犯罪被害者として協力していこう」と、共感をベースにお互いを「仲間」としてとらえることは、おそらく難しいのではないかと思います。「犯罪被害者」とは法の概念であり、情緒・感情とは距離が遠すぎるし、両者の心情的距離は遠すぎると思えます。

おわりに

「発達障害」の一般的な概念は、ASD、ADHD、LD(学習障害)の3つとされます。「ADHDやASDばかりが取り上げられ、LDについて言及する人がいない」ことを不満に感じておられる方も少なくない事も知っています。

僕にはLD特性もあり、数学は大の苦手です。LDについてはまた別の機会に触れたいと思っています。

僕は発達障害当事者の代表でもなければ、発達障害者の権利や立場の向上を叫ぶ者でもありません。もちろん、「ASDとADHD、より苦しいのはどちらか?」や「ADHDは不真面目で不摂生でも許されるからいいよな」などと、ASDとADHDとの分断を煽る意図も、毛頭ありません。

ただ、「知られていないこと」その事によって苦しむ人がいるという今の状況は、それは不幸せなことではないか、と思い、言葉を残したいと思いました。

Comment