48歳で発達障害と診断された僕が、HSPについて思うこと

「HSP」という言葉は、今ではすっかり一般的に知られる概念になったと感じます。

今回は、大人になってから発達障害と診断された僕が、HSPという概念についてどう考えているか、発達障害についてこれまで体験してきたこと、そして今、思っていることなどを、言葉にして置いていきたいと思います。

自分はHSPだと思っていた

僕は様々なメディアを通して、発達障害についての情報には触れていました。ですが今考えると、なんとも不思議なものですが、当時の僕には、発達障害ゆえの困難を抱える人々のありようと、自分の生きづらさをリンクさせて考えることができなかったんですね。「世の中には大変な人がいるんだなあ」と、完全に他人事だったわけです。

こうした経緯から、僕の中では、発達障害の自覚を持つよりも先にHSPの自覚を持つことになりました。この理由は、僕にとってHSPという言葉が持つイメージの重さが、重すぎず、どこか受け入れやすいものに思え、しっくり来た、と感じられたからです。

僕にとってHSPという言葉がしっくり来た理由は、次のようなHSPの特徴の多くが自分に当てはまっていたからです。

人の顔色を過剰に読んでしまうこと。
場の空気に敏感で、疲れやすいこと。
生きづらさは確かにあるのに、その理由がわからないこと。

この時点で僕は、長きにわたって生きづらさを抱えて生きてきた僕の人生が、HSPによって、いったん説明がなされてしまった、と感じたわけです。

ですが、HSPという概念だけではどうしても説明しきれない疑問もまた、僕の中に違和感として残りました。その違和感について答えが得られない宙ぶらりんのまま、長い時間を生きることになりました。

説明しきれない違和感とは、たとえば、

  • (特に人間関係において)何度も同じことで失敗する
  • 頑張れば頑張るほど破綻する
  • 「繊細さん」のレベルを超えたメンタル面での崩れ方をする

こうしたことについては、HSPでは説明がつかないと思ったわけです。

ですが、その後も僕は、自分が発達障害当事者かもしれないといった疑いは、1ミリも抱くことはありませんでした。

48歳で発達障害と診断

そのまま、なんともいえない違和感、そもそも言語化すらできないことへのもどかしさ、などを抱えたまま、僕は年齢を重ねました。僕が48歳のとき、転機が訪れました。

引っ越しに伴う転院後、新しい病院・新しい主治医のもと通院を重ねて3ヶ月が経ったときのこと。診察中に僕が「先生、僕はHSPだと思っているんです」と話したことがきっかけとなりました。

主治医は少し間をおいてから、次のように言いました。

「発達障害の検査を受けてみませんか」

その言葉を聞いた直後の私のリアクションですが、おそらく私は心の深いところでその事実を拒んだのでしょう。まず私の表情には笑顔が浮かびました。それから医師に「そんなはずないですよ」と、笑いながら、やんわりと、否定というには弱々しすぎる抵抗の言葉を発したことを覚えています。

そのときの僕は、その事実を否定したかったのでしょう。ですが、すでに述べたように、それまでに僕は発達障害に関する知識を多少は得ていました。ですので、それら知識と、それまでの僕の人生とが、そのとき僕の中で「つながってしまった」のだと思います。だから医師の申し出に対して強く否定することができなかった。僕自身の過去から、そのときの僕に対して、抗しきれない説得力を持つ事実が突きつけられたわけです。

それから様々な検査を経て、特性の極端な偏りが数値化され、僕は発達障害の診断を受けるに至りました。

なお、あとから主治医に聞いたところ「HSPの自覚を持っている人は、実際には発達障害のケースが少なくない」と話し、私の一言が検査を勧める契機になったと説明してくれました。

今の僕が、HSPという言葉をどう見ているか

HSPの自覚を持っている人の中に発達障害特性を持つ人が含まれている、ということについて、医師の話を聞いていて、それはおそらく事実なのだろう、と今は感じています。

「発達障害」という言葉が持つイメージは、とても重いものです。冒頭でも少し触れましたが、HSPとは用語的には心理領域の言葉であり、どことなく包摂的で優しいイメージがあり、またそのレイヤーは「個性」「性格」といった定義にとどまっていると僕は感じています。

いっぽう「発達障害」という言葉は、どちらかというと医療領域のイメージが強く、遮断的で冷たく、「症状」「障害」といった重いイメージとして一般的には受け止められているのではないかと思います。

だから、生きづらさを抱える人たちが、HSPという自己認識を持ちつつ、同じ生きづらさを抱える仲間を見つけて、励まし合いながら生きていくことについて、僕は否定するつもりはまったくありません。もしHSPという言葉がなかったら、もしかしたら僕は未だに発達障害という認識を持つことなく過ごしていたかもしれないのです。

それに、HSPと発達障害は排他的な概念ではなく、どっちかに決めなければならないという類の話ではない、とも僕は思っています。

ただ僕は、発達障害の診断を受けたことを全く後悔はしていません。診断を受けてから発達障害について多くのことを学び、自分の人生と学んだ知識を照らし合わせることで、より深く自分を知る契機を得られたと感じているからです。

それは僕の場合、人生を旅するための地図、となってくれたと思っています。

今回、僕が置いていく言葉が、
誰かの地図になれたら、
それで満足です。

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