障害年金の審査における判定の問題
先日、あるニュース記事を目にしました。それは、障害年金の実務を担う日本年金機構において、職員が医師の判定をひそかに破棄し、別の医師に頼んで判定をやり直していた、というものです。
障害者に支給される国の障害年金について、実務を担う日本年金機構で、支給か不支給かを審査した医師の判定結果に問題があると職員が判断した場合、判定記録をひそかに破棄し、別の医師に頼んで判定をやり直していたことが28日、関係者への取材で分かった。年金機構は取材に対し、こうした取り扱いを認めた上で「件数を含め事実関係を確認中」としている。医師の判定を否定する権限は職員にはないが、長年続いていたとみられる。判定のやり直しで年金を受け取る権利を奪われた人がいる可能性もある。職員の判断が支給の可否に影響を与えたことで、制度の信頼が揺らぎそうだ。
今回の記事では、このニュースについて、言葉にして置いておきたいと思います。
この記事を読んでの、僕の第一印象は「驚くべきことではない」というものでした。
なぜ僕にとって、このニュースが想定の範囲内で、むしろ既視感すら感じるものだったかというと、日本年金機構が担っている障害年金の判定業務については、以前から「基準が明確でない」「ブラックボックスだ」など、その運用実態に対して警鐘を鳴らす声は以前から無数に発せられていたからです。「何かおかしいぞ」と指摘する人々は、ずっと前から存在していたのです。
ですので、今回のニュースを受けての僕の感想は「やっぱりそうか」といった、どこか冷めたものとして感じられたというのが正直なところです。
僕個人の第一印象の説明はこのくらいにして、今回のニュース記事の内容を細かく見てみます。記事の文面には「ひそかに」「長年」「権利を奪われた」など、ある種、不穏な言葉が並んでいます。非常に深い闇を想像させる言葉です。
ですが、僕はこれらを過剰な表現とは思いません。なぜなら、このような運用がなされていたのが事実であれば、その結果として、支援を受ける権利があるにも関わらず支援を得られなかった人が存在する可能性があるということです。
それは、制度が守るべき人を制度自身が取りこぼした、ということを意味するからです。ですので、これらは決して大げさな表現ではありません。
僕自身が障害者ということもあり、障害を持つ人との様々なつながりから、ハンディキャップを抱える人々が見ている世界を、僕も見てきました。ですので、障害を持つ人にとって、障害年金を受けられるかどうかは、まさに「自分の命を今後もつないでいけるかどうか」に等しい、重いことなのです。
ですので、このニュースは、人間の命についての話題なのです。
個人の責任を追求しても何も変わらない
ですので、支援を受ける権利があるにも関わらず、その支援を得られなかった人がもしいるとしたら、その人たちの怒りは極めて正当なものであって、決して批判や抑圧を受けるべきものではありません。
ですが、僕はあえて言葉にしたい思いがあります。それは、
個人の責任だけを追求しても、何も変わらない。
ということです。
「誰を吊るすか」で終わらせてはいけない。
目を向けなければいけないのは、
どのような組織構造によって、
そのような問題ある運用が許されてしまったのか?
という、この問題の本質です。
組織構造の問題点を解明して、同じ過ちが起こらないように組織の構造を設計し直すことです。それが本当に必要なことではないでしょうか。「あの職員が悪い」だけで終わらせてはいけない。それでは、これまでがそうだったように、同じ過ちは何度でも繰り返されるでしょう。
- なぜ判定記録を破棄できたのか
- なぜ以前から指摘されていたにも関わらず、日本年金機構は自主的に透明性を持つことがなかったのか
- 外部監査は機能していたのか
こうした観点から「何が起こっていたのか」を徹底的に究明することが必要だと考えます。
誤解していただきたくないのですが、僕は「個人に責任がない」と言っているわけではありません。僕が伝えたいことは、この問題の本質は組織の構造にあるのであって、個人の処罰だけでは再発は防げない、ということです。
「悪人探し」だけでは、また同じことが起きる
ここで僕は、人間の不完全さを痛感させられる過去の出来事を一つ、思い出します。
いわゆる「薬害エイズ事件」です。
厚生省(当時)、製薬会社、医療機関の三者の組織構造が生んだ、過ちです。
非加熱血液製剤が原因となって、多くの人がHIVに感染し、命や人生を奪われた事件。
後から見れば、止められた局面がいくつもあった。
危険を示唆する情報も、兆候も、現場の違和感も、ゼロではなかった。
それでも止まらなかった。
なぜか?
そこには「悪い奴が一人いて、そいつが全部やった」という物語では説明できない、もっと不気味な構造があったからです。
誰もが自分の担当範囲だけを見ていた。
「前例」に従っていた。
手続きを守っていた。
「専門家が決めたことだから」と言った。
「自分が判断することではない」と言った。
そして最終的に、
「誰も殺したつもりがない人たちの連鎖」が、
人を殺してしまった。
この事件に僕が感じる恐ろしさは、
人間が持つ残虐さや悪意ではなく、
善意と規定と組織の都合が組み合わさると、被害が巨大化する、
という点にあります。
ハンナ・アーレント、悪、思考停止
今回の報道を目にした僕は、哲学者ハンナ・アーレントの言葉を「思想史の話」としてではなく、
現実の仕組みに対する警鐘として思い出しました。
アーレントが看破したのは、悪が「怪物のような特別な人間」によってなされる、のではなく、
人が、
考えることをやめる。
疑うことをやめる。
「自分は歯車だから」と自分に言い聞かせる。
「ルールだから」と思考停止する。
そうやって、責任を薄めていく。
その結果として、
とても大きな悪が、
とても平凡な日常の顔をして「平常運転」として実行されていく。
今回の日本年金機構にかかるニュースから、
僕は、アーレントが看破した人間組織の構造そのものを見た気がしています。
個人の責任に帰すことで感情論に支配される
組織の構造ではなく個人に責任を帰すことによって、構造の問題を直視することを棚上げにしてしまう空気が作り出されてしまうという点にも言及する必要があります。
- 「リソース不足の中、年金機構の人たちもがんばっている。責めたら『かわいそうだ』」
- 「巨額の社会保障費が国の予算を圧迫している中、年金機構の職員にも過大なプレッシャーがかけられていたのだろう。だから今回のことも『仕方なかった』」のだ
個人に責任を帰す空気が強まると、こうした感情論が支配的となります。問題の本質は棚上げされ馴れ合いから「なあなあ」に着地する。問題は何一つ改善されず、何も変わらず、将来、また同じ過ちが繰り返される。
日本の近代史だけに着目してみても、こうしたことが何度、繰り返されてきたでしょうか。
透明化とは「公開」ではなく「止められる構造」のこと
最後に、僕が伝えたいことは、
「透明化すべき」という言葉の中身です。
透明化とは、
ただ資料を公開することではない。
過ちを止められる構造を作ることです。
- 記録が消せないこと
- 判断の履歴が追跡できること
- 異議申し立てが「正規の手続き」として用意されていること
- 内部の人間が、正しく止めたときに守られること
こういう仕組みが先に必要で、
その上で初めて、個人の倫理や善良さが意味を持つ。
人はうつろうものだし、どんな組織も腐敗する、現場は疲弊して日々の業務にすり潰される。
だから僕たちは、
善良さに依存しない制度を作らなければならない。
すでに述べたように障害年金は、
「生きるか死ぬか」に直結する制度です。
その制度が、
制度の内側で静かに歪められていたのだとしたら。
それは、個人の問題ではない。
国家の仕組みの問題です。


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