発達障害当事者として、AI脅威論に感じる違和感

人間は完成された存在なのか?

最近、「AI脅威論」とでも呼ぶべき、以下のような言説をよく目にするようになりました。

「AIが普及すると、人間は考えなくなる」
「人間らしさが失われる」
「人間が人間でなくなってしまう」

発達障害当事者として生まれ、これまで半世紀を生きてきた僕は、こうした言説の多くにおいて、当たり前のように前提とされている考え方について、少し違和感を感じています。

その前提とは、次のような言葉にまとめることができます。

人間性と関連付ける文脈を持つAI脅威論の多くにおいて、この考え方は、ほとんど疑われることなく前提として据え置かれているように感じます。

ここで少し、僕のことについて話します。僕は親から虐待を受けて育ち、学校では同級生のみならず、教師からもいじめを受けて育ちました。大人になってからも人間関係における困難は続き、どんな場所に身を置こうとも、他者から理解されることは僕にとって大きな困難を伴いました。突発的な疲労などの身体的な症状も合わさった僕の特性は、僕が「人間社会に適合する」ことを困難にしてきました。

そんな僕が、常に自分に対して問いかけていることがあります。それは、

「人間は、決して完全な存在ではなく、むしろ極めて不完全な存在ではないか?」

という世界観、人間観です。

じっさい、人間同士のコミュニケーションには、極めて「ノイズ」が多い、と僕には見えます。「ノイズ」という表現を用いることについて、挑発的だと受け取られる方もおられるかもしれませんが、言葉を選ばずに言えば、僕には、やはり「ノイズ」としか表現することができません。

僕がここで言う「ノイズ」とは、
悪意や合理性ではなく、
人間の感情や関係性が生む予測不能な「揺らぎ」のことです。

いくつか具体例を挙げます。たとえば、あなたが職場の先輩など目上の人に、何かについてのアドバイスを求めたとする。先輩は快く応じてくれたし、その時のあなたの態度は客観的にみてなんら失礼なものではなかったとする。しかし、その時のあなたの態度が、その先輩本人にしか理解しがたい、あるいは本人も理解できない(言語化できない)個人的感情から「あいつの態度、気に食わない」と受け取られたとする。それ以来、その先輩はあなたに冷たく当たるようになり、職場におけるあなたの立場も悪くなってしまった。

こうしたことは、人間同士のコミュニケーションにおいて避けられないものです。

他の例としては、たとえば、あなたが旅行から帰ってきたとする。あなたは休暇明けの職場で同僚にお土産を配るが、職場のいわゆる「お局さん」などの「非公式な影響力を持つ人」に対して「その人にだけ1ランク上のお土産を買ってこなかった」ことが、結果としてあなたの職場における立場を急激に悪化させ、居場所を失う、といったことも、起こりうることです。

あるいは、こんなケースもあります。
たとえば、会議の場で、あなたが業務上の問題点や非効率な点に気づき、それを冷静に、かつ論理的に指摘したとします。内容は事実に基づいており、改善のための提案でもある。
しかし後から、

  • 「あの言い方は感じが悪かった」
  • 「場の空気を読まなきゃダメだよ」
  • 「あの言い方だと〇〇さんのメンツが潰れる」

などと評価され、あなたは「扱いづらい人」と見なされてしまう。そして、もちろん改善も実現されることはない。

事実や合理性よりも、感情の波風を立てなかったかどうかが重視される。
こうしたことも、人間関係における「ノイズ」の一例だと、僕には思えます。

僕は別の記事で「見えないボール」という表現を使うことで自分の内面を言葉にしていますが、上記で挙げたようなケースは、僕には、人間が不完全な存在であるがゆえに生じる「ノイズ」として見えています。

もう一つ、人間の不完全さを示す例として、センメルヴェイス・イグナーツのエピソードを紹介したいと思います。

センメルヴェイスの貢献と死

19世紀半ばのヨーロッパでは「産褥熱(さんじょくねつ)」と呼ばれる病が、多くの女性の命を奪っていました。
出産後、数日のうちに高熱を発し、やがて命を落としてしまう。

この病の原因は、長い間、わからないままでした。
「空気が悪いからだ」「体質の問題だ」「神の思し召しだ」など、さまざまな説明が試みられていましたが、決定的な答えは得られていなかったのです。

イグナーツ・センメルヴェイスは、そうした時代に生きた医師でした。
ウィーン総合病院の産科に勤務していた彼は、この問題に取り組み、徹底的な調査を行います。そして彼は、医師と医学生が担当する病棟における死亡率が高く、いっぽう助産師が担当する病棟の死亡率は低いという事実を発見します。

その結果を前にしたセンメルヴェイスは、医師や医学生は解剖室で遺体を扱った後、そのまま分娩に立ち会っていること、いっぽう助産師は解剖を行っていない、という事実に着目します。そこから彼は、死体由来の「なにか」が医師の手を介して産婦に運ばれているのではないか、と考えました。

当時は、細菌という概念すら一般的ではありません。それでも彼は、仮説を立て、実行しました。

分娩前に塩素水での手洗いを、徹底させたのです。
すると、産褥熱による死亡率は劇的に下がりました。

センメルヴェイスは彼の発見を医学界に発表しました。このことによって多くの人の命が救われるはずでした。

ここまで聞くと、科学が勝利した物語のように見えるかもしれません。

しかし、実際には、ここからが彼の苦難の始まりでした。

拒絶、排除、死

センメルヴェイスは多くの医師たちに手洗いの重要性を説きました。しかし彼の提言は拒絶されたのです。その第一の理由は、彼の仮説が当時の医学の常識から完全に外れていたからです。そのため彼の主張は拒絶され、彼は「狂っている」と、異常者のレッテルまで貼られることとなりました。

もう一つ、センメルヴェイスの仮説が医学会から拒絶された理由として、彼の仮説が事実上、医師たちの行為を倫理的に告発する構造を持っていたためだとする意見もあります。

つまり、センメルヴェイスの主張は、周囲の医師たちにとっては、こう聞こえたはずです。
「あなたたちは、知らず知らずのうちに、患者を殺してきたのだ」と。

これは、医師たちには受け入れがたい事実だった。
彼らにも悪意はなかった。
善意で医療を行ってきた。
自分たちは専門家であり、理性的で、正しい存在だと信じていた。

彼の仮説は、医学的にではなく、感情的に拒絶されました。
医師たちは、体面と自尊心が傷つけられたと感じたのでしょう。

彼の考えが拒絶された背景には、彼がハンガリー系だったこと、病院における彼のポジションが現代の言葉で言えば講師相当、だったことなども考慮できるとされます。

狂人のレッテルを貼られたセンメルヴェイスは孤立し、職を追われ、精神を病み、
最期は精神病院で亡くなりました。
皮肉なことに、その死因は、精神病院で衛兵から暴行を受けたことがきっかけと考えられる感染症だったとされています。

この話を「科学の悲劇」と呼ぶこともできます。
ですが、僕には別の側面が見えます。

ここで起きていたのは、
「人間は理性的である」という前提が、
現実と衝突した瞬間だったのではないか、ということです。

人は、正しい情報よりも、
自分が正しい存在であるという感覚を、
優先してしまうことがある。

「ノイズ」は個人単位だけの話ではない

「ノイズ」は個人単位とは限りません。人間の歴史を振り返ってみれば、数十万、数百万単位の人の人生や生命を左右する決断が、こうした「ノイズ」の影響によってなされてきた例は枚挙にいとまがない。その最初の引き金は「あいつ、オレにだけ挨拶しなかった。許せねえ」といったささやかな感情の連鎖だったのかもしれないのです。

少し話がそれますが、この、人間をあたかも完成された知的存在であるとする前提を疑いもしない空気に対して違和感を抱く僕の心の中の構造は、批評家の宇野常寛氏が著書「庭の話」で主張されている「共同体なんて弱者にとっては地獄でしかない」と似ているかもしれない、と思った次第です。

僕たちは「共同体」という概念に対して無条件で「良いもの」「失ってはならないもの」と自動思考的にラベリングしがちですが、宇野氏は「それは強者の視点にすぎない」と問題提起されている。

話を戻します。誤解してほしくないのですが、僕は「AIは面倒がなくていいから最高だ」といったAI賛美をしたいわけではないし、また「人間はダメだ」といった人間否定をしたいわけでもありません。

ただ、次のように思うわけです。

AIが人間性を奪うのではなく、
僕たちはもともと、
人間性を過大評価しすぎていないか。

僕は「信念」という言葉には慎重でいたい。
なぜなら、人間は極めて不完全で弱い存在だから、
「信念」を容易に他人へ押し付けてしまうから。

人間は、理性的で完成された存在ではなく、
極めて不完全で、ノイズに満ちた存在であり、
だからこそ、その不完全さを前提に、
制度や関係性を設計する必要がある。

「信念」という言葉には慎重でいたい僕ですが、
これは、今の僕が手放さずにいる考えです。

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