僕は48歳のときに発達障害の診断を受けました。
診断を受けて以来、独学ではありますが、この障害について多くを学び、自己理解を深めてきたつもりです。
発達障害と聞いて多くの人が思い浮かべるイメージは、おそらく、「空気が読めない人」とか「コミュニケーションが苦手な人」とか、あとは「遅刻が多い」といったイメージなのだろうと想像します。
僕も「発達障害って、どういうことなんですか?」と質問されることはよくあります。
今日は、そんなときに僕がよく用いる言葉・たとえを、置いていきたいと思います。
コミュニケーションとは「卓球」のようなもの
「発達障害とはなにか?」と問われたら、僕は「卓球のボールが見えない人です」と答えます。
もちろん、これだけでは何のことか、わかりませんよね?
発達障害当事者か定型発達者であるかに関わらず、僕たちはみんな、膨大な数のコミュニケーションを行いながら日々、生活しています。
たとえば、Aさんが「おお!Bくん!おはよう。久しぶりだね」というボールを放つ、それに対してBさんは「あ、おはようございますAさん。お久しぶりです」などと言いながら、ボールを打ち返す。
ここでは、僕はこうしたコミュニケーションを「卓球」になぞらえています。
このようなボールのやり取りによって僕たちは、非常に多くの情緒、情報をやりとりしています。上記の例だけでも、AさんとBさんの関係性、たとえばどちらが目上に当たるのか、といったことが見えてきますよね。
僕は、発達障害当事者と定型発達者との分断を煽ったり、双方の対立を煽る立場はとっていません。ですので誤解を恐れずに、定型発達者への少々の愛おしさを込めて言いますが、定型発達者はこの「卓球」が大好きです。恋愛も、社内政治も、マウンティング合戦も、僕の目には、そのように見えています。
ですが、発達障害者は、「卓球」のボールが見えない人々だ、と僕は思っています。
もちろん、発達障害当事者の特性の出方はさまざまであり、「卓球」のボールがはっきり見える人もいるかもしれないし、または「うすぼんやりと見える」人もいるかも知れません。僕は「発達性当事者はあまねくボールが見えない」などと言い切るつもりはありません。
ここで少し、僕のことを語ります。僕は生まれつきの発達障害当事者で、もちろんここでいう「ボールが見えない人」なのですが、僕のケースは少し特殊でした。というのも、僕の親は、いわゆる「毒親」でした。それに1975年生まれの僕が幼少期を過ごした時代においては、「発達障害」という概念はまだ一般には知られていませんでした。
だから僕は、「支援が必要な子ども」という立場を得ることはできなかった。この記事の趣旨からそれるため、詳しくはここでは述べませんが、僕は、親からも教師からも支援を受ける機会を得ることは、なかったわけです。
そうした環境で生きるためには、他人の顔色をうかがう能力を伸ばす以外になかった、と僕は自分が置かれた状況を解釈しています。そのために死に物狂いで「ボールが見えているふりをした」のだと思います。
その結果として、僕の「擬態」の能力は非常に高まってしまった、と自分では理解しています。このことは年齢を重ねるにつれ、僕を苦しめ続け、二次障害の引き金を引くきっかけを作ることになっていきます。ですが今回は、この話はこのくらいにしておきます。発達障害当事者と「擬態」については、また改めて言葉を残したいと思っています。
話を「卓球」に戻します。実のところ、僕はリアルな卓球をやった経験がほとんどないので想像に頼るしかないのですが、次のように疑問を投げかけることがあります。
「ボールが見えない卓球って、はたして楽しいのかな?」
そんなふうに、考えることがあります。
すでに述べたように、発達障害当事者にも、様々な特定の出方があり、社会的なポジションや生い立ちも異なります。
私のように、
ボールは見えないと分かっていながら、
「この構えなら、次はここだろう」と、
外れる前提の予測を、
それでも捨てずに
繰り返してきた人もいるはずです。
いっぽう、
「ボールが見えない卓球なんてやってられるか」と、
人生の早期において「卓球」をすることから撤退した人もいることでしょう。
僕は今、少しずつ、「ボールが見えないふり」をやめることを考えています。
今回の言葉が、誰かの人生の参考になれば。そんな風に思っています。



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