「突発的な疲労」
これは、ASDとADHD、両方の特性を持つ僕にとって、避けて通れない生活上の制約であり、僕の生活を規定してきた要素です。
この記事では、僕がこれまで、どのようにしてこの「疲労」と向き合い、やり過ごしてきたか、について、言葉にしたいと思います。
なお、ASDとADHDが併存するとはどういうことなのか、については、リンク先の別記事をご一読ください。
突発的な疲労と制約
「今日は人生を決める大事な日だ。がんばらないと!」、
というタイミング、
「今日は絶好調だ。いい仕事ができそうだぞ!」、
というタイミング、
「今日は休みだ。思いっきり楽しむぞ!」
などといったタイミングで、突発的に、かつ無慈悲に僕を襲ってくる、突発的な疲労感。それは頭から首、肩を覆い、次第に背中から腰へと、僕を侵食してくる。僕はそのたびに「またか」「よりによって今か」と思う。
このとき僕が感じている疲労感を言語化すると、
さっきまで元気だったのに、唐突に、まるで二日ほど連続で徹夜したかのような身体のだるさに襲われ、頭のほうは「もう限界だ!寝かせてくれ!」と叫んでいるような感じ、と表現できます。
僕の場合、この突発的な疲労感は、発生を大まかに予測できることもあれば、本人にしてみれば「意外」と感じられるタイミングで起こることもあります。
この疲労感は、
周囲から見ると
理解しにくい失敗を、
何度も生んできました。
僕がサラリーマンをしていた頃のこと。大事なプレゼンを行っている最中に疲労感が襲ってきました。僕の人生を左右するといっても過言ではない大事な局面です。でも、これが起こってしまうと、もう抗うことはできないことを、僕はよく分かっている。幕開けを観た段階で幕切れがどうなるかをすでに知っている。
この具体例以外にも、失敗は枚挙にいとまがありません。僕は16歳で高校を中退した後、現場労働の職場を経験したのですが、そうした現場は、フラフラして、ぼーっとしてる新人への当たりは超キツいです。もう30年以上前の話ですし、今は違っているかもしれませんが、怒鳴られるのはしょっちゅうですし、暴力を受けたことも多々あります。今の若い方には信じられないことかもしれませんね。それ以外にも、無数のバイトを首になってきました。
このようにして、人生における早い段階から僕を襲ってきた突発的な疲労感は、僕が「自分はどう生きるか」という人生観の構築を図るうえで、大きな制約を加えてきたわけです。
次のセクションからは、僕が突発的な疲労感の軽減に役立ったと感じていることを言葉にしたいと思います。
漸進的筋弛緩法
僕が漸進的筋弛緩法と出会ったのは、若い頃、演技の勉強をしていたときです。漸進的筋弛緩法とは、一種のリラクゼーション法です。僕はこの方法と出会ってから、現在に至るまで30年以上にわたって、この方法を続けています。
漸進的筋弛緩法とは、「全身に力を入れて緊張させてから、一気にゆるめる」というものです。具体的なやり方は専門の書籍やWebサイトに譲ります。以降は僕がこの方法を通して体験したことを言葉にしていきます。
この方法をやり始めたときは「何のためにやっているのかわからない」と感じられました。でも毎日続けていくうちに「今、自分の身体は緊張しているのか、それともリラックスしているのか」を区別できる感覚が、なんとなくですが、自覚できるようになってきました。
でもまだ、この段階では「意識的に身体の緊張を緩めることができる」段階には至っていません。僕はそれでもこの方法を継続しました。なぜ続けられたのか?どんなモチベーションがあったのか?についてはやはり「俳優になりたい」という思い、それが継続するモチベーションになっていたというのが大きかったのではないかと思っています。
次に感じた変化は、顔、肩、首、などといった個別の部位が、今、緊張しているかどうかを感じ取れるようになったことです。こうなると、歩いていても、人と会話していても、いつでも「顔が緊張しているな」と気付けるようになり、また緩めることもできるようになりました。
なおこの漸進的筋弛緩法ですが、あがり症への効果が語られることもあるそうです。
さて、僕はこの記事において疲労について言葉にしているわけですが、このセクションでは冒頭から「緊張」という言葉をメインにして進めてきましたので、もしかしたら「緊張が疲労と何の関係があるんだ?」と混乱されている人もいるかもしれません。
シンプルに言えば「緊張は疲れる」のです。
ここで一つ、整理しておきたいことがあります。
それは、「心理的な緊張」と「筋肉の緊張」は、必ずしも同じものではない、という点です。
たとえば、
「打席を控え、イチローは極限まで緊張を高めていた」や、
「緊張なくして勝利なし」、
といった言い方があります。
こうした文脈における「緊張」は、「集中」や「気合」などと同じく、むしろポジティブなものとして用いられています。
いっぽうで、僕がこの記事で書いている「緊張」は、もっと物理的で身体寄りのものです。
- 肩が上がり続けている
- 顎や眉間に力が入っている
- 呼吸が浅くなっている
といった、筋肉が縮んだまま戻らない状態を指しています。これら2つの「緊張」は、同じ言葉ではあっても、実際の現象としては別々に起こりうるものです。心理的には集中していても身体は過剰に力んでいない、という状態もありますし、逆に心理的には平静でも身体だけが緊張し続けている、ということもあります。
ですので、この記事で僕が言っている「緊張」は「身体の緊張が解除されないまま続いてしまう」状態のことを指しています。精神的集中、覚悟、気合などといった意味ではありません。
漸進的筋弛緩法を、どう生活に取り入れているか
現在の僕が、具体的にはどのように漸進的筋弛緩法を生活に取り入れているかについて言葉にしてみます。まず、緊張するような局面にあるときや、あるいは緊張に気づいたとき、頭から爪先までくまなく緊張をチェックし、固まっている箇所があれば緩めます。これは能動的な休息の時間を確保せずとも日常の動作と並行して行えていることです。
いっぽう、耐え難い疲労を感じて休息の必要を感じたときは、可能な限り早めに休息を取ります。全身の緊張をチェックし、それを緩める。たんに横たわったり、チェアの角度を寝かせて身を預けて休憩した場合と比べて、短い時間であっても疲労が軽減されたと感じます。最高なのは床やソファーに横になってリラックスすることですが、もちろん、これはどんな場所でもできるわけではありません。
「疲れたら休息する」のではなく、
「そもそも疲れないようにできたらいいのに……」、と願う僕ですが、これは再現性も低く、なかなか実現できていません。
さて、漸進的筋弛緩法だけだと「身体はリラックスしていても脳はフル稼働状態のままリソースを減らし続けている」状況には抗いがたいと個人的には感じています。そこでもう一つの習慣「瞑想」が力になってくれました。
マインドフルネス瞑想
瞑想について言葉にする前に、まず僕が「考えること」について、どう感じているか説明します。
僕にとって「考えること」は、「報酬」だと思っています。考えたいことについて考えるのは、楽しいことだから、やめたくない。ずっとそれを続けていたい。
でも、休みなく考え続けていると脳が疲労する。頭も休ませる必要があります。でもこのタイミングを測ることが僕には難しい。頭ではなく身体を使うことであれば、休憩をとるべきどうかの判断もしやすい。たとえば筋トレ。「週6日トレーニングするのは、やり過ぎ」とか「休息が1日だけでは少なすぎる」など、こうした指針は多くの人に共通するもので再現性も高く、どのくらいやって、どのくらい休めばいいのか、当たりをつけやすい。
でも、考える(脳を使う)ことって、どれだけ使った後にはどれだけ休んだらいいか?これは難しいですね。頭を使う生き方・職業の場合、休日と稼働日が曖昧になりやすいことは言うまでもありませんし、よく言われる「頭脳労働者はうつになりやすい」については、僕もそう感じています。
こうしたことを踏まえて、僕は瞑想を「能動的に脳を休ませるため」に行っています。
瞑想というと「修行」「精神修養」といった、極めてストイックな言葉を想起する人もいるかと思います。ですので、瞑想は素人が気軽に行えるようなものではない、といった、ある種のハードルの高さを感じている人も少なくないかもしれません。
僕はあらゆる既存宗教の信徒ではありませんし、瞑想に宗教的意味合いを求めていません。それに近年、様々な立場の人がマインドフルネス瞑想を習慣として行っていることを表明している背景もあり、瞑想は以前よりも身近な存在になっていると思っています。僕も一つのリラクゼーション方として瞑想を習慣化してきました。
僕が行っているマインドフルネス瞑想は、以下のようなやり方です。
- 目を閉じる
- 呼吸に集中する
- 心のなかに浮かんだことを「実況」する
呼吸に集中するとは、このようなことです。
「深くゆっくりと息を吸う」、最中に「入る」と頭の中で言葉にし、
「深くゆっくりと息を吐く」、最中に「出る」と頭の中で言葉にする。
言葉にこだわる必要はなく、自分がしっくりくる表現でいい。
心に浮かんだことを「実況」する
呼吸と関係ないことが頭の中に浮かんだら、それを「実況」して、「ラベル」を貼り、そしてまた呼吸への集中に戻ります。
たとえば、呼吸に集中して「入る」と頭の中で唱えているときに、ソース焼きそばのことを考えてしまったとします。こういうときは「ソース焼きそばのことを考えている」と頭の中でラベルをつけ、また呼吸への集中に戻る。ということです。
大事なことは「呼吸に集中しなきゃいけないのに、ソース焼きそばのことを考えてしまった!」などと自分を責める必要はないということ。加えて、以下のように思考を発展させることもしないほうが良いとされます。
- 「なぜ私はソース焼きそばのことを考えてしまったのだろう?」
- 「さっきはソース焼きそばだったが、今度は塩焼きそばの事を考えてしまった。なぜ私は焼きそばのことを考えてしまうのだろう?」
考えず、速やかに呼吸へ意識を戻します。
加えて、以下のような努力も必要ありません。
- 「心を無にせねば」
- 「雑念を払わねば」
心に何かが浮かんだら、ラベルを貼って、また呼吸に戻ればいいだけです。
おわりに
僕の個人的な体験として、これら2つの方法は、僕が生きるうえでの困難さを軽減してくれた、と僕は感じています。
ですが、「もしこれらをやっていなかったら?」という問いには答えようがありません。
なぜなら、
「やらなかった場合の人生」を、
体験することは不可能だからです。
ですので、今回置いておく話は、
改善や克服の物語ではなく、
生存の話です。


Comment