報酬か、仕事か
発達障害当事者と定型発達者の違いを説明するとき、近年よく目にする表現として以下のようなものがあります。
- 定型発達者は情緒の交換を「報酬」として感じるが、発達障害者は情緒の交換を「仕事(義務)」と感じる
- 定型発達者は情報の交換を「仕事(義務)」として感じるが、発達障害者は情報の交換を「報酬」として感じる
この考え方ですが、臨床や社会心理の分野では、一つの仮説として一定の支持は得ているそうです。こうした分野でどのように考えられているかを大まかにまとめると、以下のように言えます。
① 発達障害当事者(主にASD/ADHD)は、意味・構造・情報価値の高い情報交換を報酬として感じやすい
②いっぽう発達障害者は情緒・感情のやり取り(特に内容希薄なもの)を負荷・義務・労働として感じやすい
③定型発達者はこれと逆の傾向を示すことが多い
④この非対称性が誤解・摩擦を生む
①②③はそれぞれ複数分野における研究的裏付けがあり、④は臨床・社会心理で広く認識されているとのこと。ですのでこの考え、全くの俗説というわけでもなさそうです。
僕の経験と、「あるある」な具体例
この考えを、僕が過去から現在にわたって経験してきたことに当てはめて考えてみると、かなり当てはまるな、と感じます。
たとえば、全く親しくなく、お互いのことは名前程度しか知らないご近所さんから「おはようございます。今日は寒いですね」などと言われたら、僕は一瞬、固まってしまいます。これは、「最適解」を探すべく脳がフル稼働している状態。
「朝の挨拶は人として、礼儀の面から大切だ」という社会通念は知っているので、「おはようございます」と反射的に返すことはできる。決して難しくはない。でも「今日は寒いですね」などと「僕には意図が読み取りにくい謎の言葉」が付け加えられると、一瞬、脳がバグり、処理が止まってしまう、という感じです。ただ、このようなケースの場合については、今の僕は深刻な違和感を感じてはいません。
いっぽう、次に紹介していくのは、いまだに僕が強い違和感を覚えるコミュニケーションの例です。こんな僕でもサラリーマンとして会社勤めをしていたときもあるのですが、職場というところ、とりわけホワイトカラーの職場は、僕にとっては理解が難しい「情緒のやり取り」があふれている空間です。
なお、以下の具体例において僕が感じている違和感は、すべて個人的な感想です。すべての発達障害当事者がこう感じる、という意図ではありませんので、誤解のないようお願いします。
天気・体調の話題
「雨続きで嫌になりますね」とか、「最近ちょっと疲れてません?」とかのアレ。
話したところで、天気を変えることはできない。さらにいえば、仮に僕の体調が悪くなったとしても、その人物は医師でも看護師でもなく、したがって僕を助けるための技術を持っているわけではない。そうなると、「この会話は業務になにか役に立つんですか?」という違和感が生じてきます。
週末・私生活の「確認だけ」の会話
「土日は何してたんですか?」や「ゆっくり休めました?」というアレです。
僕の場合は、「プライバシーに関わる事を聞かれている」といった、ある種の被害感情のような気持ちは皆無です。ただ「それを聞くことにどういう意味があるんですか?」としか反応しようがなく困る、という感じ。
感想だけ求められる雑談
「あのドラマ観ました?」とか、「最近の若い人ってどう思う?」等。
そのドラマは観てないし、映像作品について語るなら他に語りたい作品は山ほどある。世代論について語り合いたい場合も同様で、話すならきっちりと予習もして誠実に話したい。でもその話、今、しちゃいけないんですよね?「だったら意味がないのではないですか?」などと感じてしまいます。
すでに決まっていることへの「同意確認」
「最近大変ですよね」とか、「厳しいですよね」等。
反論や議論はしにくい。実質的には「同調チェック」。「何の意味があるのか?制度に不満があるならそのことについて皆で話し合いませんか?」と言いたくなる。でもそんな反応は、決して望まれていない。
上司・先輩からの「感情共有を強制する」会話
「この仕事、やりがいあるでしょ」とか、「成長を実感してほしい」等。
求められているのは同調や忠誠心。事実も条件も確認されておらずただ単に同調だけ。
「頑張ってる感」を確認する会話
「最近、忙しそうだね」とか「ちゃんとやってる?」等。
どう答えようとも、どんな問題があろうとも、実際に業務調整が行われることは稀。さらに、ケアに見えて、評価の観測点になっている場合もある。
飲み会・休憩室での序列確認会話
「誰と誰が仲いいらしいよ」とか「最近どうよ?話題になってるよ?」等。
あくまで僕個人の場合ですが、僕は「社内政治なんてくだらない」とか「自分は関わりたくない」といった、いわば「社内政治アンチ」としての立場を信念を持って貫いている、などというつもりはまったくなく、ただ単に、「この情報を知って、何をすればいい?わからない」という、混乱にも似た感情が起こります。
違和感をまとめてみると
職場には、「情報を交換するための会話」とは別に、
「話しているという事実そのものを確認するための会話」がある。ということでしょう。
後者は、多くの人にとっては潤滑油となるが、
僕にとっては、意味の見えない作業になることがあります。
僕から見える定型発達者
ここでは、定型発達者と発達障害当事者のそれぞれが、コミュニケーションをどのようにとらえているのか、僕の中のイメージを言葉にしていきます。
僕が会話をするときは、無意識にこう考えています。
- 何の情報がやり取りされたか
- 何が更新されたか
- どんな意味があったか
いっぽう、定型発達者の場合は、
- 関係が壊れていないか
- 敵意がないか
- 排除されていないか
といった、関係性や序列、距離感などを確認する行為と捉えている、と僕はイメージしています。
こう考えると、「今日は寒いですね」の意味も見えてきます。これは、内容ではなく信号なのです。「今日は寒い」ことは既知で重要でもなく、反論の余地もない。でも定型発達者にとってこれは、「敵意はありません」「あなたを危険視していません」「今この場であなたと衝突する気はありません」という信号だということです。
なぜ「信号の打ち合い」が安心につながるのか
定型発達者は、というか人間は、多くの場合、社会的排除を受けることへの恐怖と、人間関係が悪化することへの不安を抱えて生きています。そのため、言葉のやり取り以外にも「小さな相槌」「繰り返される定型的なコミュニケーション」などによって「ここは安全な場所だ」とか「私はまだ排除されてない」という安心感を得ている。
ですので、「今日は寒いね」と言われたら、僕は「寒いのは昨日もだよね、というか昨日もその会話したよね」と言いたくもなるのですが、これも「定型発達者にとっては反復が安心材料になる」と考えると、なるほど、という気にもなります。
なお、以下はまったく皮肉を込める意図はないのですが、この「新しい情報は不要で、同じ型を続けることが価値を持つ」というのは宗教儀礼にも近いものがあると僕は思います。
なぜ、意味なく見えることでもやらないと不安になるのか
定型発達者にとって雑談を省くことは、「無視された」「嫌われた」「なんか怒ってる?」という解釈につながりやすい。そのため、「話題がなくても話す」「意味ある内容がなくても声をかける」という行為には、「意味がないからこそ、意味がある」(意味がないにも関わらず、あの人は私のために意味のないことをわざわざしてくれた)という逆説として成立するわけです。
なぜ発達障害者は淘汰されなかったのか
ここで僕の中に、次のような疑問が生じます。
「太古の昔から、たとえば狩猟採集時代から発達障害者は存在していたとしたら、集団行動に適さないように見える彼らが、なぜ淘汰されなかったのか?」
以下では、この問いへの理解を深めつつ、僕の言葉として残したいと思います。
前提の整理:進化は「平均最適化」ではない
まず前提として、進化とは「みんなが同じになること」ではないと考えられています。進化とは、
- 環境変動への耐性
- 役割分散
- 集団としての柔軟性
などを高める方向に働く、というのが進化についての前提のようです。つまり人類は、性格・認知・恐怖反応の「多様性」を残したまま、生き延びてきた、とされます。
定型発達者の恐怖心は「集団維持装置」
このセクションの最初で僕が感じた疑問のとおり、「社会的に排除されることへの恐怖」や「人間関係関係悪化の不安」などの特性は、集団行動には非常に有利です。現代日本の労働環境を観ても分かるように、この「恐れる」特性が薄い・弱いと、
- 「使えない奴」
- 「空気が読めない奴」
- 「協調性に欠ける奴」
といった烙印を押され、社会的排除の対象とされます。
なぜ「集団から排除されることへの恐怖心が薄い」個体が残ったのか?
理由1:集団には「恐怖に縛られない視点」が必要だった
恐怖心が強い集団は、
- 慣習を疑えない
- 権威に従いすぎる
- 変化を嫌う
これは、環境が急変したとき、全滅しやすい。
いっぽう、恐怖心が稀薄な個体は、
- 異質な発想をする
- ルールを疑う
- 危険を過小評価して探索する
つまり、人類は生き残るために、「逸脱役」、や「探索役」を必要としたのではないか。意図せずこれらを混在させて存続してきたのではないか、という考えがあります。
これは、発達障害者が「役に立つから許される」「役に立たない者には存在を認めるべきではない」という話ではありません。
ただ、人類が多様性を残したまま生き延びてきた理由を考えると、こうした特性が偶然ではなかった可能性もある、という仮説です。
理由2:集団は、全員が同調すると崩壊する
もし全員が、「排除を恐れ」「空気を読み」「慣習に従う」と、どうなるか?
それは「誤った判断でも止めることができない」「集団錯誤が修正されない」「破滅的選択に突き進む」といったことにつながります。異質な個体が一定数いないと、集団は自己修正できない、ということです。
発達障害者は「空気を読まない」「不都合な真実を言う」「不安を共有しない」。これは集団の「ノイズ」や「困ったちゃん」であると同時に「安全弁」でもある。
ここまで言葉にしてきた内容を次のようにまとめて、この記事を終わりたいと思います。
社会的排除を恐れない人間は、
集団にとって扱いづらい。
だが、
扱いづらい存在が一人もいない集団は、
たいてい、遠くまで行けない。
おわりに
すべてを均一化しようとする力は、
しばしば「進歩」という言葉をまとって現れます。
市場の効率を最優先し、
そこから外れる個体を「不適合」と呼ぶ論理。
それを合理性として支えてきた新自由主義は、
たしかに多くのものを生み出しました。
ただ、その過程で、
「均一化できない人間」が
どのように扱われてきたのか。
その問いが、
以前よりはっきりと見えてきたように、
今の僕には感じられます。


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