今日は、なぜ僕がこれまでの人生で、通算30年以上にわたって筋トレを続けているのか、について言葉にします。
これほど長く筋トレを続けている僕にとっても、実は、筋トレは言葉にするのが非常に難しいテーマでもあります。
理由は、世間が思い浮かべる「筋トレ好きの人」のイメージと、僕の内面があまり噛み合っていないからです。
日本における「筋トレ愛好者」のイメージ
噛み合っていないとは、どういうことか? 言葉にしていきます。日本には「筋トレをする人」や「筋肉が強調された身体性」から距離を置く人が一定数います。この背景には文化や学校経験など複数の要因がありますが、ここでは近年の「筋トレ愛好者」像に焦点を絞ります。
ですので、焦点をここ40年程度に絞ってみます。日本において、筋トレをする人や、いわゆる「筋トレカルチャー」を毛嫌いする人というのは、おおむね、筋トレとその愛好者に対して以下のようなネガティブなイメージを持っているのではないか、と想像できます。
- 非合理的な「根性論」を押し付けられるのではないか、というイメージ
- 学校生活において「体育会系」文化に良い体験がなく、むしろネガティブな体験が占める
日本の文化においては、筋トレと、こうしたネガティブなイメージが強烈に結びついてしまっている空気があることは否めないと思います。
僕自身、幼さゆえの勘違いから、少年時代に自身のアイデンティティを、バリバリの「体育会系」に置いたものの、決定的な違和感を感じ、うまく適応できず、その世界から離れた人間です。最初に述べた、一般的な筋トレ愛好者のイメージと、僕の内面に不一致がある、というのはそういうことです。
ここで、誤解していただきたくないので、少し脱線してでも、述べておきたいことがあります。
筋トレ愛好者のマインドと体育会系マインドとは親和性が高いことは事実であり、筋トレ愛好者の中に強い体育会系マインドを持っている人が存在することは否めません。しかしそうした体育会系と同等か、またはそれ以上に「好きなことをとことん追求する人」「こだわりが強い人」といった、いわば「研究者タイプ」も、この世界には昔から多く存在し、今でも存在している、という事実は言葉にしておきたいと思います。僕は確実に、こちらのタイプに属する者です。
話を戻します。筋トレについて言葉にするとき、僕は、自分が発する、
ひとこと、ひとことの単位で、
次のように自問自答しながら言葉を発しています。
- 押し付けになっていないか?
- 知らず知らずのうちに「できる私」「できないあなた」という構図を作っていないか?
- 相手の背景を無視して「こうすれば『誰でも』できるはずだ」という圧を生んでいないか?
とりわけ僕が、発する際に脳をフル稼働させてしまう言葉、
発することを最後まで躊躇する言葉、
それが「努力」です。
僕は、いわゆる「努力万能論」「努力至上主義」には強い違和感を感じるし、危険ですらあると考えています。
なぜなら、努力万能論は、
「努力できる環境に生まれたこと」、
「努力が許される環境に身を置けた・存在できたこと」、
などといった「運」の要素の重要性を希薄にしてしまう力を持っているからです。「できないお前は努力が足りない」というやつですね。
表層の話と、内側の話をします
ここからは、発達障害当事者である僕にとって、筋トレが何だったのかを言葉にします。
最初に、二分構造を明確に示したいと思います。
どういうことかというと、まずはじめのセクションで僕は「表層」の話をします。このセクションは主に、僕が筋トレを続けることによって、発達障害の生きづらさが、どのように軽減されたと感じられたのか? といった主観的観点からの言葉、加えて、社会的観点から僕が筋トレに対して思っていることを言葉にします。
「発達障害当事者が長年、筋トレを続けることで得られたものは、なんだったのか?」という言葉に触れることで、なにか得られるものがあるかもしれない、と期待される方、つまり、少々、荒っぽい表現かもしれませんが「軽い読み物としてポジティブな文脈だけ受け取りたい」という方は「表層の話」まで読み終えた後は、この記事は閉じてもらって大丈夫です。
その次のセクションでは、「内側」の話をします。これは僕が筋トレを続けてきた理由の「裏歴史」ともいえる内容になります。もしかしたら、読むことで不快になる方もおられるかもしれません。しかしそれもまた、僕の真実の一面なのです。
表層の話
習慣は、たぶん「性格」になる
マザー・テレサは、次のような言葉を残しています。
「習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから」
この言葉は文字通りに解釈すると、
「よくない習慣はいつしか、あなたの性格になってしまうから気をつけなさい」
という警句・戒めとして受け取れます。
ですが、僕が自分自身と筋トレの関係について、この言葉を使って説明するとき、僕はこれを、ポジティブな文面として内在化しています。
ですので、ここでは、発達障害当事者として生きてきた僕が、筋トレを続けることで得られたもの、という切り口で言葉にしていきます。
「習慣は性格になる」
これは、僕の場合、当てはまる、と感じます。
ここでは、僕が筋トレを続けることで得られた2つの「性格」について言葉にします。
まず一つ目の「性格」ですが、それは端的に言えば「気持ちを切り替えるマインド」を得られた、ということです。
僕はASDとADHDの両方の特性が共存するタイプの発達障害当事者です。ですので、ASDの気持ちも、ADHDの感覚も、おそらくどちらも理解しています。ADHD気質が生きづらさとなる原因として、よくあげられるものとして、衝動性(思いついたらすぐ行動したい)や報酬系における課題(楽しいことだけをずっと続けたい・楽しいことをやめられない)などがありますが、これらが強く出過ぎると、日常生活の様々な局面で困難が生じます。
「思いついたらすぐ行動したい」にまつわる失敗として、僕はいまだに、たまにやってしまうのですが、夏に短パンを履くのを忘れて家を出てしまったりします。「楽しいことだけずっと続けていたい」のほうは、説明不要かと思います。これをずっとやっていると、社会の中で生きるうえで、いろんな問題が生じてきます。
そんな僕が、筋トレという習慣を続けることで得られた「気持ちを切り替えるマインド」とは、以下のようなものでした。
- 「ちゃんと計画してから筋トレに取り組まないと、疲労ばかりたまって筋肉はつかないし、ケガの原因にもなるぞ」
- 「ゲームをずっとやっていたい? でも筋トレしないと筋肉が落ちるぞ? さあ、ゲームはここらで切り上げて筋トレしよう」
僕は、自分の中に複数の人格がいるように感じながら生きている、ことについては別の記事でまとめていますので、そちらを一読いただけると幸いです。
さておき、ここで僕が言葉にしたいことは「気合でなんとかなる」といった、いわゆる根性論でもなければ「僕はこうして自己管理ができる人間になった」という自己管理自慢でもありません。ただ、僕が体験したこと、見てきたことをそのまま書いています。
僕は誰かを説得するためにこの文章を書いているわけではないし、そんなことができるとは思っていません。
話を戻します。筋トレによって得られた「性格」の二つ目は、筋トレを続けたことによって、
「その問題って、僕が何をしたら解決できるの?」
という思考をするようになった、ということがあげられます。
たとえば、些細なことですが、多くの人にとって「肩こり」「腰痛」といった身体の不調などの現象は「もう年だし、仕方ない」と認識されているようですが、僕はそれらを「どうしたら改善できるか?」と考える思考のクセが付きました。これは日々、筋トレを通して、自分の身体といわば「チューニング」や「改造」という方向性で対峙していることから自然と生まれる思考といえるかもしれません。
これら2つの「性格」から、人生全般に対して「問題や障壁はある。では、それらをどうしたら主体的に関わって乗り越えていけるか?」という発想は、僕の中に自然に生まれてきたと思っています。その発想は「絶望的な状況でも、どこか希望があった」という体験として、僕の人生の記憶に記録されています。
ちなみに余談ですが、この発想が行き着くところの、一つの終着点・エッジの例として「筋トレは成功への近道」「成功者は皆、筋トレをやっている」といった、具体例としてはインフルエンサーのTestosterone氏に代表されるような思想が生まれることや、それを支持する人がいることも、僕の中では説明がついています。僕はそうした言説が生まれる背景も理解できますし、それらを否定するつもりは全くありません。ですが僕のスタンスはすでに述べたとおりで、僕は「押し付け」や「言い切ること」にきわめて、懐疑的な人間です。
健康面
次に、これは当たり前といえば当たり前で、あえて言葉にする必要性も薄いことなのかも知れませんが、僕が筋トレを続けることで得られたものは、健康面でのメリットです。
筋トレという行為は、健康でなければ継続はもちろん、入口に立つことすら難しい、という、ある意味残酷な位置にあるアクティビティであると、僕は思っています。
筋トレを続けて、自身の身体を自分好みにチューニングしていく。複雑極まりない世の中のあれこれに比べたら、比較的、短期間で成果が得られる。
この報酬を得続けていくためには、健康でなければならない。読みたい本があろうとも、ゲームを中断したくなくても、夜更かしをしたら健康は維持できない。ドラマを見たいから食事の準備が面倒だ、と思っても、健康を失うことを考えたら、日々の食事をカップ焼きそばだけで済ますことはできなくなる。
ここでは、報酬を得続けるために、その土台として健康を志向するという関係性になっています。僕の中ではこれは「根性」や「自己管理」などといった言葉では説明できないものです。これは単なる報酬の連鎖にすぎない。僕はただ「好きなことをやっているだけ」なわけです。
心を身体に戻す
次に、これはかなり、抽象的なことがらになってしまいますが、筋トレが僕にもたらしてくれたものとして「心を身体に戻す感覚」が得られた、ということも申し添えておきます。
ASDとADHDの間を、ときにゆったりと行き来し、ときに双方の特性が激しく衝突しあったりする。僕の日常の時間は、そんな感じで流れています。それに、僕は物書きですので、仕事を終えた後は、心がふわふわと浮き上がり、思考が自分のどこに収まっているのか、あいまいになる。
筋トレをすることで、そんなふわふわした思考が、しっかりと身体につなぎとめる効果も得られた、という感覚が僕の中にあります。これは「地に足がつく」という表現がしっくり来ます。
すべては「運」
このセクションの最後に、改めて僕が言葉にしておきたいことがあります。僕の場合、発達障害という極めて生きづらい特性を持って生まれ、過酷な人生を歩んできたにも関わらず、精神面で致命的に破綻することがなかった。それはおそらく、筋トレによって得られたものだろう、とおぼろげに感じています。しかし、それは僕の努力の結果として勝ち取った手柄ではなく「運」から得た恩恵にすぎないのです。
もしもあのとき、あの書店にあの本がなかったら、
もしもあのとき、あの映画に出会っていなかったら、
もし、そもそも本も文字も存在しない世界に生まれていたら
僕の人生は、全く違ったものになっていたでしょう。
内側のこと
では、ここからは内側の話です。
冒頭にも述べましたが、ポジティブな言葉だけを持ち帰りたい方は、ここで読むのを止めてください。
「毒親」との闘いでもある
ここは、僕が通算、30年以上にわたって筋トレを続けてきた歴史の、いわば影の側面について、言葉にしていきます。それは僕自身の動機の歪み、とも表現できるものです。
僕は、親から虐待を受けて育ちました。
そのことは、未だに僕の中で、答えが得られていない「わかる」という段階に至っていない、記憶の中の1ページです。
筋トレと「毒親」がどうつながるのか? と疑問を持った方もおられるかもしれません。
どういうことかというと、僕の記憶の中で、親の身体的な特徴・あり方は、当時の家庭環境や恐怖と強く結びついたネガティブなイメージとして残っている、ということです。
誤解していただきたくないのですが、僕は現実の世界に存在する太っている人、を増悪したり、蔑んだりしているわけではありません。これは、幼かった僕が当時、感じていた、逃げ場のない家庭環境を具象化したイメージ、ということです。
だから、僕は生涯をかけて「あんな生き方はしない」と、僕の中の仮想的である「毒親」との闘いを続けてきたのだろう、と、今では思っています。それは正しさの話ではなく、僕の中に残った結びつきの話です。
これが、僕が筋トレを続けてきた歴史の、もう一つの側面です。
おわりに
僕は筋トレを好む趣味嗜好から、数多くのフィットネスインフルエンサーを、メディアを通して目にしています。
彼ら・彼女らは、みな、素晴らしい身体を得ています。それは「得たもの」と「失ったもの」の総体であることを、僕は知っています。
華麗さの影に、ある種の「あやうさ」「儚さ」を秘めた人もいる。
そうした人の中に、僕は、僕自身を見ているのかもしれません。
僕の言葉が、特に、筋トレを毛嫌いしたり、距離を置く人の心に「何か」を残せたら、それで満足です。


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