発達障害(ASD & ADHD共存)と疲れやすさ
僕は発達障害の当事者で、ASDとADHDが共存しているタイプです。別の記事でも言葉にしていますが、なにがしんどいって、まあとにかく疲れやすいです。
僕が「自分って疲れやすい『体質』なのかも」と自分の中で自覚し始めたのは、16歳くらいだったとおぼろげながら記憶しています。部活の練習に全くついていけない日々が続き、そこから人間関係が難しくなり、結果として高校を中退する遠因にもなりました。
この「疲れやすさ」は、それ以来、僕の人生においてずっと「制約」として機能してきました。この制約によって僕の人生は常に「今日、ここまでやれるかな……?」「ここまでやったら明日、動けなくなりそうだな……」といった、それらの気持ちをあえて言語化するならば「自分がどこまでやれるのか、わからない」という「自己不信」ともいえる感覚によって制限を受けてきた、といえます。
生まれつきの発達障害に加えて、僕は発達障害の二次障害として患った双極性障害の当事者でもあるので、この「自己不信」の困難さは、さらにねじれた、やっかいなものになっていきます。
わかりやすく言語化するために、和製RPGの代表作である「ドラゴンクエスト」のようなゲームにたとえてみます。もしも、こんなゲームがあったとしたら……?
- 自分の最大HPが表示されない
- 自分の現在のHPが表示されない
- 自分のHPがどんな出来事によって減るのかがわからない運要素
- ある日突然、理由もなくHPとレベルが爆上がりする(数値では示されない)
- ある日突然、理由もなくHPとレベルが0になる(所持金や経験値が減るなどのペナルティを受ける)
- セーブポイントが信用できない(ロードすると状態が違う)
- 戦闘中のコマンドが理由もなくグレーアウトして選べなくなる
こんなゲームがもし現実に存在していたとして、これをプレイした人が抱くであろう感想を想像してみます。言葉を選ばずに言えば、この作品は間違いなく「クソゲー」という評価になるのではないか? と僕は思います。
ゲームに例える話はこれくらいにして、話のポイントを次に進めます。ですがその前に、双極性障害について、僕が日頃、感じていることを言葉にします。これは当事者である僕の個人的な思いであって、専門家の方は違った見解を持たれるかもしれないことがらです。
双極性障害の自殺率が高いことは、様々な場面で指摘されている事実だと僕は思っていますが、なぜそうなるのか? について当事者として僕が思うことは、上記でゲームになぞらえたような「獲得」と「剥奪」が、当事者の意思によらず、病態という、本人の主観的な見方からすれば「外圧的な力」によって無情かつ、交互に発生するというのが要因の一つとしてあるのではないか? と僕は思っています。
人は、持っていないものが手に入らないときよりも、持っているものを奪われるときに激しい怒りを感じる。
これは哲学や文学でもしばしば用いられる文脈ですし、人間の歴史を見ても「たしかに」と納得させられるだけの説得力を持つ考え方だといえます。
老化と弱化
ここまで言葉にしてきたことで、僕が感じてきた・感じている困難さの一端は理解していただけたかもしれませんが、次に僕が言葉にしたいことは「これって、しんどいけど、悪いことばかりでもないのでは?」という視点です。
加齢によって、心や身体の能力が低下することにより、個人のアイデンティティの危機が引き起こされる、という考え方があります。
個人的なことですが、僕は筋トレを長年続けていますので、老化は「数字」によって無慈悲に、まざまざと見せつけられます。若い頃に100kg挙げられてたバーベルが、だんだん数字が落ちてくる。疲労も抜けにくくなり、日々のトレーニング時間も30代では90分だったのが、だんだん短くせざるを得なくなってくる。
他に、一般的な例としては、
記憶力が下がる、
体力が下がる、
ちょっと駆け足しただけなのに翌朝、膝が痛む、
健康診断であれこれと指摘を受ける、
性的機能が低下する。
こうしたことが積もり積もっていくと「若くて無茶ができた自分」と「老いて弱っていく自分」との対峙が求められる。これって実はめちゃくちゃつらいことです。若い人から見ればもしかしたら理解不能な行動と映るかもしれない「おじさん同士の病気自慢」も、この観点から言語化できるような気がします。皆、不安なのです。仲間がほしい、つながりたい、のです。
このような、心身に生じる変化が原因で中年期以降のうつを引き起こすってこと、僕の周りを見ていると、けっこう、あるんじゃないか、と思っています。
僕は人間という存在に、ずっと興味があります。ですので、こうした苦しみは「知る」ことができます。でもそれは、「わかる」とはちょっと違う。僕が考える「知る」と「わかる」の違いについてはこちらの記事をご一読ください。
ここでこのセクションの冒頭で僕が説明した「めちゃくちゃ疲れやすい、でも、それって、悪いことばかりではないのでは?」という地点に戻ります。
僕の場合、今のところ、加齢に伴う大きな困難さは感じていません。それは、若い頃から「制約」があったからだと思っています。
いちいち立ち止まって休んだり、考えたりしなきゃいけなかったからです。周りが走っているのに、僕は走れず歩くしかなかった。それはもちろん、しんどいことには違いない。ときにはこの「制約」のために大きな挫折や断念を強いられたことも一回や二回にはとどまりません。
具体例を言えば、僕は30代の半ばで大学に入ったんですが、体調の悪化が原因でけっきょく、中退することになってしまった、という、おそらく「挫折」「頓挫」などとラベリングされるであろう、人生の1ページも僕の人生の中には、あります。
こうしたことはもちろん精神的に極めてキツいことです。でも、人間が避けて通れない「老いと弱化」という大きなものと比べて、いや、比べること自体に意味があるわけではないですが、もしかしたら僕は「予行演習」を積めたのかもしれない、なんて思っています。
こうしたことから、めちゃくちゃ疲れやすいっていう「制約」も、
少なくとも僕にとっては、
悪い面ばかりでもなかったのかもしれない、
そんなふうに思っています。
こうしたことについて考えるとき、僕は、ヘミングウェイの「老人と海」を思い出します。
老人は海で巨大な魚と格闘する。
散々な目にあって帰港する。
だが、苦労して我がものとした魚は失われる。
それでも、勝ち負けではない「何か」は感触として残る。
もしかすると、老いと向き合うとは、若い頃には決して見ることができなかった、こうした「何か」に豊かさや意味を見出すことなのかもしれません。
現代社会は「ゆっくり歩くこと」を許さないようにデザインされている。
僕たちは社会から、
「走り続けないと、みじめな落伍者になるぞ」、
「勝ち続けろ。さもないと負け組になるぞ」、
という圧を常に受けながら生きている、僕はそのように感じています。
僕が今日、置いていく言葉が、
誰かにとって、何かのきっかけになれば、
それで満足です。


Comment