なぜ僕は、ゲームに「他者」を求めないのか

いわゆる「ファミコン世代」である僕にとって、ゲーム(ビデオゲーム)は、長年続けてきた趣味の一つです。

現在のゲーム全般について、僕は「オンラインゲーム」と「オフラインゲーム」との二つに分けて、とらえています。ところが、この二つがしばしば混同されたり、社会において明確な分別がなされていないことに僕は少々の違和感を感じています。

今回の記事は、僕がゲームに感じている違和感を言葉にします。

オンラインゲームとオフラインゲーム

最初に述べておくと、僕はオンラインゲームは一切やらない、と決めています。その理由については後にあらためて述べます。その前に、この記事で扱う「オンラインゲーム」と「オフラインゲーム」という言葉の定義について、かんたんではありますが、僕の考えを言葉にしておきたいと思います。

まず、オンラインゲームとは、インターネット接続を前提とする。さらに、
「他のプレイヤーとつながり、それら他のプレイヤーと対戦や共闘することにより生み出される体験が作品の価値の大半を占めるゲーム」。

いっぽう、オフラインゲームとは、オンラインゲームと同様にインターネット接続が前提となっている場合もあるが、それらはゲームバージョンのアップデートや海賊版対策のために前提とされているにすぎず、作品の価値の本質を他のプレイヤーとのつながりには置かない。作品の価値の本質は、制作者が示した世界・ゲーム内空間をプレイヤーが体験することを通してプレイヤーが得られる体験にある。

僕はこのように、オンラインゲームとオフラインゲームを見ています。

オンラインゲームが「労働」のように感じられる理由

以上を踏まえて、発達障害当事者である僕が、なぜオンラインゲームをしないことに決めているのか? その思いを言葉にしていきます。

僕にとってのゲームとは何なのか?
僕はゲームにどのような価値を見出しているか? 
僕はなぜ自分の時間をそこに使っているのか? 

人生を通して、僕にとってのゲームとは、
「制作者がつくった世界観を通して制作者と対話し、ときにぶつかり合い、そこから、ひいては、自己と向き合う空間」、
として認識されてきたものです。

この、僕と作品との向き合い方は、ゲームだけに限ったことではありません。小説であれ、映画であれ、このスタンスは変わることがない。僕は、つくり手と僕との「2人しかいない空間」での対話をするために作品に触れています。

少し話がそれますが、冒頭で定義した「オンラインゲーム」に完全に当てはまらない作品も存在します。具体的に説明すると「オフラインゲーム」としてつくられている作品だが、その一つの要素として、プレイヤー同士が協力したり、あるいは対戦したりすることを可能にする機能を持つ作品のことです。僕がこのような作品をプレイする際にまずやることは、この機能をすべてオフにすることです。このような機能はまるで「自分の部屋で一人で小説を読んでいたら、いきなり見知らぬ誰かが部屋に乱入してきて『おっ!いいよねそのシーン!オレも大好きだよ!』などと熱量高く叫びかけてくる」といった異常事態に等しいほど、不自然なこととして僕には認知されるのです。

話を戻します。僕がオンラインゲームをしないことに決めている最大の理由は、一言で言ってしまえば、
「自己と向き合うためにゲームをしているのに、ゲームの中でまで他者と関わりを持つ」
という、オンラインゲームの構造に強い違和感を感じるから、ということになります。

様々な媒体から情報を得るにつけ「オンラインゲームの人間関係」に疲れを感じている人は、一定数、存在していると僕は感じています。それらをまとめて要約すると、楽しむために始めたはずのゲームが、いつしか、以下のような空気に支配されていく、ということのようです。

「勝たなければ意味がない」、
「勝つための最適解を見つけた者こそが優秀な者だ」、
「最速でクリアすることが至上」

そして次に起こることは「最もコスパよく勝つための振る舞いや決断ができる者」を上位者とした階級が形成される。そして上位者を担ぐ取り巻きが生まれる。明文化されるかされないかを問わず、ルールが定められ、そのルールに従わない者、微細な「空気」を読んで行動できない者は、その階級構造の中の他のプレイヤーから、冷遇され、ときに糾弾され、排除されることになる。

オンラインゲームが作りだす、この空間は人間という存在のミニチュアでもあり、人類史の年表の縮図でもある、というふうに僕には見えます。

さらにいえば、この構造がもたらす空間の質は、極めて、現代の「集団」による「労働」に近いものになっている、とも感じます。

たとえば、発足当初は「みんなで楽しいことをやろう。楽しいことを世界に広げていこう」などといった理念・理想から始まったスタートアップ企業があるとする。一年が経ち、二年が経ち、五年が過ぎ去ったころには、当初の理念はすっかり失われている。立ち上げメンバーの多くは会社を去っていて、社内では早くも社内政治が勃興しており、数々の摩擦や軋轢が生まれ、企業の成功を遠ざける怪物が日々、召喚されている。それでも最後までふんばっている代表は、銀行や取引先に頭を下げてばかりの日々を送っている。そして「生き残るってことは、甘くねえんだ」などと、おそらく、これまでいつの時代にも、ほとんど同じ調子で繰り返されてきた音声を、自分を鼓舞するためか、はたまた他者を論破するためか、あるいは呪詛の言葉なのか、いずれにせよ呪文のごとく毎日のように詠唱している。

こうした「集団」「労働」「変貌」をテーマにした絵画的風景は、枚挙にいとまがありません。

いずれにせよ、僕はオンラインゲームという空間が、このように見えています。

もう一つ、言葉にしておくと、こうしたオンラインゲームが作る空間の構造には、明確な、コミュニケーション能力、そして「空気読み力」による、人間の選別と排除の構造がある、とも僕には見えています。これは「人間が集まる」場には避けて通ることができない限界なのかもしれません。

オンラインゲームなど、なくなればいい、とは思っていない

誤解してほしくないのですが、僕は別に、オンラインゲームを憎んでいるわけでもなければ「オンラインゲームなんて世界から消えてしまえばいい」などと思っているわけではありません。

僕はゲーム制作の立場に身をおいた経験はないので、以下は想像の域を出ませんが、オンラインゲームはオフラインゲームと比べて、利益率を高く維持しやすい構造を持っていると思っています。

オフラインゲームは、基本的に「買い切り」であり、発売したタイミングで利益が出た後は、基本的にDLC(ダウンロードコンテンツ)をリリースしたり、あるいは続編を出すなどの手段によらなければ追加で利益を出すことは難しいのではないかと思います。もちろんこれらの試みは、一般的に大きなコストを必要とするため、制作者としてはリスクとなります。

いっぽうオンラインゲームは、サブスク、ガチャ、バトルパスなどの仕組みによって、ゲーム業界に関わらず、あらゆる企業が欲しがる「継続的かつ安定した売上」を実現しやすい構造があると言えます。売って終わり、ではないからです。もちろん「オンラインゲームはオフラインゲームよりも楽に稼げる」などという甘い世界ではなく、オンラインゲームには、サーバーや運用人員などの初期投資コストが必要であることは言及しておく必要があります。

ただ、こうした前提をふまえても、オンラインゲームには、
「ゲーム空間に集うプレイヤー同士の人間関係を資源にできる」という決定的な違いがあると思います。

  • マウンティング
  • 協力
  • 競争
  • 承認欲求

こうした、そこにいる人間同士の関係そのものによって、プレイ時間を伸ばし、作品の消費時間を延命することが可能になる。

  • あいつに勝たなきゃ気がすまない
  • あの人に認められたい
  • 自分は有能な人間だと示したい

制作者側がコンテンツを作らなくてもユーザーが勝手に、YouTubeで配信してくれて、SNSで体験を言葉にしてくれもする。そうして制作者側にとっての資源を増やしてくれる、という構造が、オンラインゲームにはあると思います。これは、ビジネスにおいて高い利益率を実現するうえで非常に強い構造だな、と思います。

こうした感情は、誰の中にもある。
だからこそ、この構造は強いのでしょう。

ただ、発達障害当事者である僕は、こうした空間に居続けることは、難しいのです。その中では、僕は、とても消耗しやすい、から。

こうした背景から、僕はゲーム制作者がオンラインゲームで利益を得ることは否定しません。オンラインゲームで得た資金をオフラインゲームに投入し、ぜひ名作を世に放っていただきたい、と思っています。

ただ、オフラインゲームを愛好する者として、オンラインゲームとオフラインゲームの区切りを明確にしていく流れが生まれることを、僕は望んでいます。次のセクションではこの、「オンラインゲームとオフラインゲームの境界」について言葉にします。

メディアとゲーム

メディア、とりわけオールドメディアでは、今回、僕が言葉にしてきたような、オフラインゲームとオンラインゲームとを一括りにして「ゲーム」と、ラベリングしたうえでの主張が少なくないと感じます。いうまでもなく、僕にはこれは少々、乱暴なラベリングだと感じられます。

もっと解像度を高めて見ていけば「オンラインゲーム」と一括りにすることはできない状況があるとも、僕は思っています。それは作品の根底に流れる思想や収益構造の違いから生じる状況です。

具体的に言えば、利益最優先としか思えない収益構造を組み立て、その作品を楽しみ尽くすためには事実上、課金が必須の位置づけとされている作品もあります。それらは、しばしば否定的な文脈で「課金ゲー」などと呼ばれます。いっぽう、課金しなくても作品が持つ価値の大半に触れられる作品もある、僕は見ています。それらをごちゃまぜにして「ゲーム」と報道しているケースもあり、混沌としているな、と感じます。

この背景には、メディアの立場から見てゲーム全般が「ユーザー(消費者)の時間を奪い合う競合者」であるから、メディア側としては妥当な戦略をとっているだけなのだ、と見ることもできるでしょう。

ただ、ゲームを愛するものとして、オンラインゲームとオフラインゲームとを乱暴に一緒くたにされ、その前提のもと「ゲーム中毒」「ゲーム依存」などという文脈でゲームが語られている場面を目にするにつけ、残念な気持ちになるのは確かです。

今回、僕が置いていく言葉を目にした人が、こうした報道に触れた際に、わずかでも解像度を高くして情報を吟味するきっかけを得てくれたら、それで満足です。

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