断酒――勝利ではなく、更新され続ける決着

先日YouTubeで、ビジネス映像メディアである「PIVOT 公式チャンネル」の、依存症治療の専門家である松本俊彦氏をゲストに迎えた回を見ました。

僕自身、40歳で断酒してから10年以上が経ちます。
この記事では医学的な正しさよりも、僕がお酒とどう折り合いをつけてきたかを、体験として書きます。

この記事は医学的な説明や診断を目的としたものではなく、発達障害当事者である僕自身の体験と認識を言葉にしたものです

断酒

僕は40歳のときに、酒をやめました。

近年では、長く使われてきたことわざである「酒は百薬の長」というのはミスリードであり、実際には「アルコールは百害あって一利なし」が事実上のスタンダードとして、かつカッコ付きではあるが「正義」として支配的になってきていると僕は感じています。

じっさい、日々報道される、失敗によって社会的立場を失った人々の物語を見ていると、その背景の多くにはアルコールが関わっていることは事実といえます。セクハラ、パワハラをはじめ、刑事事件に発展するなどの、より深刻なケースにおいても多くの場合に飲酒が関係しているのは間違いないでしょう。

冒頭で紹介したPIVOTの動画において、松本俊彦氏は以下のようなデータをもって飲酒が持つ危険性を指摘しています。

  • 飲酒は高血圧・糖尿病の原因となるうる
  • 自殺既遂者の21%にアルコールの問題
  • 21%の人たちは「全員」が ①40代~50代 ②男性 ③有職

PIVOT 公式チャンネル

じっさい、僕もこれまで飲酒によって数多くの失敗をしてきました。

発達障害当事者である僕は、シラフであっても空気を読まず、ただでさえ誤解を招く失言や行動を取りがちです。これが酔ってしまったら、もう目も当てられないほど悲惨なことになります。

※以下、自傷に触れる記述があります

この表現によって極めて不快または不安な気持ちになる方もおられるかもしれませんが、僕はこれまでの人生で何度か、自ら命を絶とうとしたことがあります。それはすべて飲酒しているときだった、という事実は言語化しておく必要があるでしょう。上記で引用したデータの言葉を拝借すれば、もし「既遂」していたら、僕はこの記事を書いていることはなかった、ということになります。

ただ、幸いなことに僕は、アルコール依存症と診断されたことはないし、僕自身の人生と生活状況を振り返ってみても、僕はアルコール依存症の域に踏み込んだことはなかったということは言えると思うのです。

ただ、その「域」を「見た」とは思う。

なぜそう言えるのかというと、僕は若い頃、俳優になるための勉強をしていました。その経験から僕は「他人としてものを考え、その人物として感情を立ち上げるには、どうすればいいのか」という視座を得ました。これは「スタニスラフスキー・システム」と呼ばれている演技理論です。

演技法の理論から学んだスタンスによって、僕は、最も極端で、理解しがたく、エッジに位置しそうな「あまりに非常識な行動」と見える他人の行動であっても、そこから逆算して紐解き、自分自身の体験に、その異常に見えるエッジと合致する部分はないか? と探す。見つかれば、その体験をどの方向に加速させればそのエッジに到達するのか? と探っていく、深く潜っていく。

僕は人生を通して、こうした思考を行い続けています。だから僕は、アルコール依存症に限らず、その他の薬物依存から抜けられない人の心情もある程度は理解できるつもりです。ですが、ここではこれ以上、演技法の話題には踏み込みません。また機会があれば言葉にしたいと思っています。

寝酒の怖さ

話を飲酒に戻します。

僕が個人的に、怖いなあ、と感じるのは「寝酒」です。寝酒とは「寝入りに酒を飲む」という意味であり「夕飯時などに酒を飲む」晩酌とは違うものだと僕は考えています。飲酒に求められるマナーも過去に比べて厳しくなっている現代の日本においても、寝酒は際立って「恐ろしいこと」という認識はされていないのではないか、と僕は感じています。

ですが、個人的な体験から寝酒は、とても怖い、と感じます。

僕は発達障害の当事者であり、その二次障害である双極性障害の当事者なので、睡眠には何かと問題を抱えがちでした。眠れないことがもたらす恐怖感は、僕の生活に大きな制約を課していた時期も長かった。

でも、過去の僕、発達障害をはじめとした、あらゆる問題への自覚がなかったころの僕は「睡眠薬を飲むくらいなら酒のほうがまだマシだ」と思い込んでいました。ですので眠れない日はとにかく酒を飲んだ。

明かりを消して寝床についても一向に眠れない。30分、90分と時間だけが過ぎていき、気がつくと「眠りたいのに眠れない」時間は2時間を超えている。焦る。そして僕は寝床から這い出て酒を取り出して飲む。酒が家になければコンビニに買いに行き、そしてまた酒を飲む。

このような日々が長く続きました。

以下は、あくまでも個人的な体験の言語化であり、医学の専門的立場の見解は異なるのかもしれないことです。寝酒は、「眠りに落ちかけた不明瞭な意識」のまま飲み、そこで酔っていく。寝床に横たわり、意識は不明瞭、そして照明は消されており部屋は真っ暗。

こうなると、明るい部屋で座ったり立ったりして酒を飲むのとは違い、自分がどれだけ酔っているのかがわかりにくくなる。視界が揺れたり、椅子から立ち上がろうとしたがふらついたり、そうした、自分が今、どれだけ酔っているのかを知らせてくれるきっかけを、寝酒の状況では得ることができません。

結果として、僕の場合は、酒の量がどんどん増えていきました。

なお、寝る前に飲酒することが臓器にとってより多くの負担となることは、医学的にも確認されている事実のようです。

「揺れ」は消えない

僕は10年にわたって断酒を続けていますが、なんらかの心理的ストレスを受けた日は、心がざわつきます。
それは「ストレスが酒によって緩和された、と感じた」記憶がそうさせるのだろう、と個人的にはイメージしています。

話が少しそれますが、僕にとっては、これは喫煙についても同じことがいえます。僕はタバコを止めてからの期間は断酒してからのそれよりも長いですが、
長いあいだ視聴し続けて親しみを感じているゲーム配信者などがタバコを吸っているところを見かけたときなど、
未だに、わずかに心が揺れます。
自分の軸が揺らいでいる、弱っている、そんなときほど、揺れる。

その揺らぎは、弱くはあっても、抗いがたい魅力を放っている。
自身に課した枷を捨て去って、揺らぎに身を委ねる。
その先にある、甘美な世界の記憶は、消えることがない。

こうした「心がざわつく」感覚を、たぶん僕は一生、持ち続けるのだろうと思っています。

まあ、ですので「自分は今、弱ってるな」と感じたら、飲酒の情報には一切、触れないようにすることが自分にとっては今のところ、一番しっくり来る方法です。

快楽の刻印

これもまた、医学的な見地とは異なるかもしれない、あくまで個人の感想ですが、次に快楽物質について僕が感じていることを言葉にしたいと思います。

過去の僕は、アルコール依存症(アル中)について、次のようにイメージしていました。
「人生において飲んだ酒の量が、ある量にまで累積されると身体になにがしかの変化が起こる。そして『アル中』になるのだろう」

ですが、現在の僕は異なる認識を持っています。

アルコールを摂取することによって、人の脳に快楽物質が分泌され、心地よさ、快楽を感じる。ただ、個人がその体験にどれだけ強烈に依存してしまうか、脳内物質が出た瞬間をどれほど鮮明に心にとどめてしまうのか? それらは感受性の違いによって起こるのではないか? と、今の僕は思っています。

たぶんそこには、体質や気質――遺伝的な要素も含めた個体差がある。
僕はそのように感じています。

飲酒によって数々の失敗を重ねきた僕が、今のところ携えている考えは、次のようなものです。
「この人生では、酒を楽しむことはできないように生まれたのだ」

つまり僕にとって、断酒は「正しさ」に従った選択ではなく、自分という個体の限界を引き受けた結果である、と言語化することができます。

快楽物質を出すのはアルコールだけではない

双極性障害を抱え、気分のアップダウンが激しい僕にとって、そのアップダウンが連れてくる喜びと哀しみを一時、忘れさせてくれる誘惑はアルコールだけではありません。依存のリソースはそこら中に転がっている。これがまた、なんともしんどいものです。

では、どのようにして僕は飲酒の欲求を抑えてきたのか? と考えてみたのですが、個人的には、別の欲求で上書きするしかないのではないか? と感じています。

この、酒以外の別の欲求はできるだけ、デメリットが少ないものがいいことは言うまでもありません。酒を我慢するためにパチンコにのめり込んだり、タバコを吸いまくるというのは、あまり良い方法とはいえない気がします。

僕にとってラッキーだったのは、僕が長年の筋トレ愛好者だったことでしょう。
筋トレは基本的に、健康でなければ続けられません。
ここでは健康を維持することが報酬として僕には感じられ、結果として断酒のモチベーションになっているといえます。

こうした、ネガティブ面の比較的少ない代替手段を持たずに生きてきた人にとって、酒をやめるということは、おそらく僕が経験した困難よりも、おそらくずっと重く深いものなのでしょう。

酒と結びついた人生

SNSなどでは、断酒を呼びかける啓蒙活動とも呼べるスタンスで発信をされている人々が散見されます。飲酒肯定派 vs 飲酒否定派の間で、激しい論戦・論破合戦が繰り広げられている場面をしばしば目撃します。

僕は、他人に「酒をやめよう」と熱量高く呼びかけるこうした人々を否定しません。

ただ、思うことがあります。

誰を救おうとしているのか?
と。

本当に救いたいのは、
自分ではないのか? 
と。

僕には、「酒をやめるなんてありえない」と感じる人々の気持ちも理解できるような気がします。

それに、専門家がまことしやかに言う「酒にはこれだけの害がある」などという情報を自己の中に受け入れること、腹に落とし心で受け止めること、それは間接的に過去の自分を裁くことでもある。加えて「お前は〇〇年、酒を飲み続けてきた。計算するとお前の寿命はあと〇〇年だ」といった、余命告知のような宣告を自分自身にしてしまうかのような感覚にも襲われる。言うまでもなくこれは、多くの人にとって受け入れがたい恐怖です。

さらに、飲酒を長年続けてきた人の人生には、その生のふしめふしめの思い出が、酒とともにあるのではないか、と感じています。

受験や就職活動など、人生で初めて手にした勝利のよろこびを家族や仲間と分かち合ったとき、
お気に入りの素敵なバーと、そこでの人間関係、
友情や恋愛といった人生のドラマ、
出会い、そして別れ。

人生における無数の思い出のページ、大切な記憶が、お酒とともに心のなかにある。日本のように飲酒に寛容な国では、こうした人は少なくないのではないか、と思うのです。

善い記憶も、苦い記憶も。
お酒の文化は、そういうふうに編まれてきたのだと思います。

別の観点では、このような考え方もあるでしょう。

「酒をやめるなんてありえない」、
「他にどんな楽しみがあるっていうんだ?」、
「労働がキツすぎるんだよ。でもローンを払わなきゃいけないんだよ」
「酒だけが救いなんだよ」
「奪わないでくれ」

このように言語化はしていなくとも、このような思いを抱えて生きている人は少なくないのではないでしょうか。そして同時に僕は、このような叫びに答えうるだけの哲学は現代社会に存在しないだろう、とも思っています。

こうして考えていくと、飲酒の害をなかば一方的に並べ立て、断酒を奨励し、飲酒者を一方的に断罪したりすることは、酒とともに生きてきた人々、酒なくしては人生を走り続けられないと感じている人々の人生を、否定することになる、と言えるのかもしれない。

このように対立関係にある双方の視点と、彼ら彼女らが置かれた状況の構造をつまびらかにし、こうして言語化することは、それを読む者にカタルシスという快楽を与えることはない。それに、見方によっては、とても底意地の悪い視点と言えるかもしれません。

対立する双方のうち、片方だけの主義・主張だけを書いて、自らもその片方に没入して熱狂の中に身を投じる。そうすることによって脳に快楽物質が分泌され、快楽が得られるのかもしれない。

でもそれは、物書きである僕には許されない贅沢なのだろう、と思って、言葉にしています。

だから僕は、正しさの旗を振るよりも、まず自分の足元から書きたいと思います。

おわりに

僕にとって断酒は、勝利ではありません。
自分という個体の限界を、ようやく正面から引き受けた、ただの決着です。
そしてその決着は、今日も更新され続けています。

Comment

タイトルとURLをコピーしました