僕の関心を常にひきつけるテーマ、それが「共同体」です。
今日は、共同体、強者と弱者、孤独、
こうした観点から、僕の考えていることを言葉にして、置いていこうと思います。
強者と弱者、序列、不安
さまざまな共同体論を見ていて、いつも僕が思うことは、その多くが、いわば強者目線の立場から見た理想的風景から描かれている、ということです。ここでいう強者とは、特定の強者特性をもとにした限定的なイメージではなく、さしずめ、経済的強者、コミュニケーション強者、身体的強者、世襲的強者、などといった「強者」イメージをまとめて抽象化した総体だと思っていただければ大丈夫です。
まず、僕が人間をどのように見ているか、多面的な解釈のうちの一つを述べておきます。
人間が3人も集まれば、いや、もしかしたら2人だけでも集まれば、いつも人間は、ほとんど反射的に、
「どっちが上か決めようぜ」
を決めたがる。言い換えれば、人間はいつでも「私とお前のどっちが強者か、あるいは弱者か」を決めなければ、つまりは序列づけないことには気がすまない。人間とはそのような、極めてどうしようもない、不完全な存在だと僕は思っています。
この、序列の付け方には文化差があります。
日本であれば、
年齢、年次、血脈、肩書、
これら以外の、可視化情報に表されない暗黙の序列。
欧米であれば、
競争耐性、成果、カリスマ、自律性、自己言語化能力。
などでしょうか。さらに言えば、進化的に見れば、我々とさほど遠くない類人猿の場合は、
身体的優位性、効果的な威嚇、連合、資源へのアクセス――
こうしたことが序列を決定づけます。
ですので僕が共同体論に触れたとき、まず真っ先にそこから読み取ろうとすることは、次の観点です。人間というものは、スキあらば他人をマウンティングしてしまう困った存在だが、この欠点について共同体論の中でどう考えるのか、という視座がその論の中に存在するかどうかです。人間が持つこの欠陥について、一切言及されていない・できていないことが確認できたとき、僕は「なるほど、この段階止まりの論なのだな」と、そう受け取るようにしています。
ではなぜ人間は、互いに序列をつけることを手放せないのか?
それは、不安がそうさせるのではないでしょうか。
たとえば、「信頼関係」という言葉について、この言葉から僕の心に想起されるイメージを言葉にしてみます。以下、大変に下品な表現であり、かつ、使い古された言い回しで恐縮なのですが、「互いの金玉を握り合う」という言葉がある。つまり、今は相互信頼という幻想を与えてくれる相手であっても、明日もそうだとは限らない。もしそうなったら、いつでも相手を殺せる、無力化できる。この言葉には、そういう含蓄があります。
このように、必要に応じて、いつでも相手を無力化することができる関係性を人は「信頼関係」や「腹を割って話せる間柄」などと表面的には呼び、心の深層では「安全装置」というラベルを貼る。そうすることで不安から一時、解放された気分になっているのではないか、と僕は考えています。
これは具体的な現象として、次のように表出する――
「親しい間柄」における酒席において、上司の悪口で盛り上がったり、お互いの過去の失敗談を共有して「わかる~」などと微笑み合う。そうして一時、互いを分かり合えたかのような幻想体験を味わう。それによって「つながり」が得られたかのような感覚を覚える――。
逆に、このような空間において、
「酒を飲まず」、
「悪口を言わず」、
常に冷静で、客観的な意見だけを述べる者。こうした個性は敬遠され、仲間とはみなされない。
人間には、このような一面があります。
別の言い方をすれば、人間のこうした性質は「管理可能性」への欲求ともいえます。
本音を言える関係、
弱みを見せられる関係、
悪口を共有できる関係。
これらはすべて「相手がどこまで逸脱するかを予測できる」という安心感に基づいている関係性です。
さて、ここまで、序列、強者と弱者、
などの観点から人間がつくる共同体を見てきました。結果として、残念なことですが、どのような種類の共同体であれ、共同体の構成員全員の幸福充足という観点からは、あまり期待ができないようにも思えてきます。
結局、共同体で得をするのは、序列の上位者、すなわち強者だけなのではないのか?
という問いが、当然、生じてくる。
そして、多くの共同体論が、この問いに答えるだけの哲学を持っていないし、哲学を構築する必要性にすら目を向けない。
「話し合えば、分かり合えるはずだ」という前提を、ほとんど無自覚に置いている。そして、その前提によって削り落とされた存在のことには目が向いていない。
そうなると、
「共同体に期待などできない」
「カネで解決できる社会のほうがよほど弱者にとって優しい」
という意見が出てくるのも当然のことだと言えます。人間が抱える不完全さの問題に真剣に向き合わず、強者にとって居心地の良い理想を描いているだけではないか、と受け止められても仕方がない。
この、共同体的つながりとカネを対比させる観点について、もう少し丁寧に、僕の考えを置いておきます。
カネは意味を要求しないが、共同体は常に意味を要求する、という構造の違いについて述べておく必要があるでしょう。
つまり、共同体では、役割、承認、居場所などが「意味」として機能している。そして人間を序列から自由になることができない存在とするならば、序列から降りることは、共同体内における自己の存在の意味を失うことと直結する。
だから人は、強者であり続けようとする。弱者であることを拒否する。
そして、序列を乱す・壊す人間を恐れる。
言い換えれば、これまで存在した、そして今もデザインされている共同体の多くは、強者の不安処理装置として設計されていたケースが大半だったのではないか、と言っても過言ではないようにも思えてきます。
この章についてまとめると、共同体を語るうえで、序列を頑なに手放そうとしない人間のどうしようもなさ、不完全さを直視し、それをどう克服していくか、という論点は欠かせないものではないか、ということです。
孤独を恐れない者、孤独の中でしか息ができない者
ここまでは、共同体と、序列、そして強者と弱者という視点で考えてきました。
僕が思うに、日本の共同体論にとりわけ欠けているものがあると思っています。
それは、孤独を容認し、肯定する視座です。
日本では、
孤独に真っ向から向き合う者、
孤独を恐れない者、
孤独の中でしか息ができない者、
このような個性を、なかば暴力的に「助けを必要とする人」とラベリングしてしまう。あるいはもっと悪いことに「そんな人はいない」ことにされてしまう傾向が強いと思っています。
ここで、僕自身について言葉にします。
僕は、自身を「孤独を恐れないどころか、孤独の中でしか息ができない者」、
と、置いています。
つまり、そもそも孤独を「病理」として扱う前提そのものに対して、僕は疑いの立場を取る、ということです。
「いかなる言葉を並べ立て、孤独を正当化しようとも、あなたは病んでいるのだ。助けを必要としているのだ」
このように乱暴に「孤独=病理」として前置き、その前提を当たり前のものとして話を進める論理に、僕は大きな違和感を覚える、ということです。これは例えば、夜行性の生き物に対して「なぜ昼に活動しないのか」と心配するようなものだと言えます。それくらい、両者の認識はスタート地点においてズレている、ということです。
「助けが必要な人」つまり「支援対象」とすることは、実は、別の側面では「その個性の未来を固定してしまう」という面があります。
つまり「支援対象」であるというラベルは、
「今困っている」
のみならず
「これからも困り続ける」
を含意するからです。
だから「支援対象」のラベルは、善意でありながら、その個性が持つ未来の可能性を狭める。
孤独を病理化することは「そいつは今、そうである」を「そいつは本質的にそういう存在である」へと、いつの間にか、誰も気付かないままに、すり替えてしまう暴力性を備えています。
孤独を病理だと断定する社会的コンテクストを反映してか、日本の大衆向けエンターテインメント作品には、孤独を肯定的なものとして描いた作品は非常に少ないと感じています。日本の作品の大半を占めるのは、
「孤独だった人が理解者を得て孤独ではなくなる」
「孤独な人が必然的な帰結として破滅する」
というプロットです。
そんな中、数少ないともいえる、孤独を直視した物語を持つひとつの例として、
「アイアムアヒーロー」:著:花沢健吾、を紹介したいと思います。
なお、以下はこの作品のネタバレを含みますのでご注意ください。
――主人公は、かつてほんの短い期間だけ作品を評価されたことのある漫画家だ。
だがその成功は長く続かず、現在は業界の中で不遇な位置に置かれている。
彼のイマジナリーフレンドは、
「あなたの作品がつまらないのは、あなたが他人に関心がないからですよ」
と、真実の一端を突く言葉を投げかける。
しかし主人公は、まだそれを真正面から受け止めることができていない。
やがてゾンビ・アポカリプスが発生し、
彼の周囲の人々は次々とゾンビ――ZQNへと変貌していく。
ZQN化した人々は、やがて巨大なZQNに吸収され、一体化していく。
その融合は悲劇として描かれるのではなく、むしろ
「安心」や「つながり」、
あるいは「帰るべき場所」を得る体験として表現される。
だが主人公だけは、最後まで巨大なZQNに取り込まれることがない。
視界に入る限りのすべての人間が消失した世界で、
彼は、ただ一人、生き延びてしまう。
それでも、彼の表情に悲嘆はない。
――「アイアムアヒーロー」のあらすじはここまで。
「みんなと一緒に生き延びられず、
たった一人、
世界で生きていくなんて、
そんなエンディングはひどすぎる」
「意味がわからない」
このような印象を、読後に抱く人も少なくないかもしれません。
この物語は、救いがない。それは確かでしょう。
しかし、この作品では、孤独を、
克服されるべきもの、
癒やされるべきもの、
としては扱っていません。
また、孤独を「共同体に回収されるまでの一時的な過程」
としても描いていない。
孤独を病理として恐れる多くの人にとって、この作品が、居心地の悪い物語として感じられることは無理のないことなのかもしれません。
ですが、今ここに僕が存在しているように、僕のような、
「孤独の中でしか息ができない人」は、確実に存在するわけです。
「孤独の中でしか生きられない人」が、共同体の中でなぜ異物化されるのか、これは前のセクションですでに述べた現象とも重なります。
「孤独の中でしか生きられない人」
そのような個性と、僕たちがつくらねばならないかもしれない新しい共同体は、
どう関わっていくのか?
あるいは、そうした個性を仲間とは認めず排除するのか?
それとも、そうした人々が、村の周りにある森の中でひっそりと暮らす、
そのような空間を設ける余地はあるのか?
周りの森に住む者たち
村の中に住まず、村の周りの森に住む。
というと、逃避のように受け取られる方もおられるかもしれません。
しかし、別の見方もあるのではないか、と思うのです。
全員が村に住んだら、摩擦が過剰になる。
全員がつながりを持ったら、序列が不可避に強化される。
だから、距離を取る人、
関わらない人、
そして、森に住む人。
こうした人々の存在が、結果的に人間の共同体を安定させてきたのではないか、とは考えられないでしょうか。
孤独を「病理」だと即断し、孤独の中に生きる者を排除する共同体は、本当に健全なのでしょうか?
誤解していただきたくないのですが、僕は、
「孤独の中でしか生きられない人がいる」と言っているだけなのであって、
「すべての人が孤独に生きるべきだ」などと言っているわけではありません。
この章でここまで述べてきたような、こうした「孤独」にまつわる問いかけについて直視していない・できていない共同体論もまた、僕にとっては「なるほど、この段階がこの論の限界なのだな」と感じさせるものです。
つまりは、孤独を生きられる者、孤独にしか生きられない者、そうした人間の存在を前提に置けない共同体論は、不完全だということです。そしてそれは、その不完全さ故に、強者と弱者を再生産するのでしょう。
日本人は「孤独を肯定できない」のではなく「孤独を想像できない」
多くの日本人にとって、孤独は、
「苦しい」、
「不安だ」、
「早く終わらせたい」
そうしたものとして認識されます。
だから、孤独を、
ありのまま、
生の、
ありよう、
形式、
として、想像することが困難なのではないか、と僕は思います。
悪意や排除意識に見える表層をさらに潜った場所にあるもの、それは、想像力の限界という事実なのかもしれない。
とはいえ、現実は難しい
ここまで、日本の共同体論がしばしば見落としている点について述べてきました。
好き勝手に言っておいて何なのですが、この記事で僕が挙げたような問題を解決する共同体像を提示することは、現実的には非情に難しいこともまた、事実でしょう。
序列付けを禁止すればいいではないか、としたとしても、
何を持って禁止するのか?
法で禁止するとしたら、それは多分に柔軟性を欠き、救われない人が出てくる。それに、一度決めてしまったことを変えること、あるいは変えないこと、それぞれに「勝ち負け」で判断してしまう構図ができあがってしまう。本質をそっちのけにし、困っている人々をほったらかしにして「あいつにだけは負けたくない」に奔走してしまうのが人間です。
では法によらず、小集団における「長老」的な人物が定める「掟」によって禁止するとしても、哲学者ジョン・アクトンが言ったように「絶対的権力は絶対に腐敗する」ことは歴史を見れば明らかです。
こうした問題に対して、現時点において、功利主義的観点からどうにか折り合いをつけるためには、個人主義に頼らざるを得ないのでしょう。
しかし個人主義にも問題があります。
個人主義が加速すれば、
「その合意には同意しかねる。なぜなら私は傷ついたからだ。個人主義でいくんでしょ? だったら、一人でも異論を唱える者がいるなら、その声に耳を傾けなくてはいけませんよね?」
となり、何事も決まらず、問題は棚上げされ何も解決されないまま、苦しみを抱えた人は取り残される。そして抑圧された者たちのフラストレーションの積み重ねが強烈なバックラッシュとなり、反作用として人々は強権による支配を求めるようになる。
今、現実に世界で起こっているように。
では、どうすればいいのか?
ここでもまた「不安」が重要なポイントなのではないかと僕は思うのです。
不安を語れないものか
しかし「あなたは実は不安を感じているのだ」などと指摘する人は、いつの時代も嫌われます。こうした指摘を受けた人の大半は、いやほとんどすべての人が、怒りをあらわにします。強者であらねばならない、弱者になるわけにはいかない。だからこそ、怒る。この人が権力者であれば、言った者は粛清の対象となることが常なのが人間の歴史です。
それでも僕は思うのです。
スターリンや、毛沢東、ポル・ポト、
そうした人たちが、
「あのさ、みんな聞いてほしいんだけどさ。どうもオレは不安を感じてるみたいなんだわ」
と、言える社会であったなら、
なにかが変わったのではないだろうか。
物書きで、空想家の僕は、ついそのような事を考えてしまうのです。
おわりに
共同体とは、本来、
人を集めるためだけのものではなく、
人が距離を取ることを許すためのものでもあったはずです。
孤独を病理として処理する前に、
その孤独が、どのような呼吸の仕方なのかを
想像する余地を、社会は失ってはいけない。
現代の日本は、
自立にばかりこだわり、
自律することの大切さを教えていない、とも思います。
自律とは「もしかしたら、私は不安を感じているのかもしれない」と自ら気付き、自己を整え直すことです。
僕は、そう考えています。


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