今日は、僕がこれまで生きてきて、ずっと感じてきた違和感のひとつを、言葉にします。
その違和感とは、
なぜ人は、
自分が「説明しやすい存在」に切り縮められることを、
これほどまでに容易に受け入れてしまうのか。
といった問いかけとして、僕の中にずっと、存在してきたものです。
また、この記事は、僕の表現者としてのスタンスを言語化して、ある程度の形にまとめた姿勢表明でもあります。
これは個人的な「思考の癖」なのか?
僕は昔から、自分の人格をなんらかの社会的な枠によって規定されたり、役割として説明されることに強い違和感を感ながら生きてきました。しかし現代社会は「特化せよ、ジャンルを固定せよ」「あなたの一部を切り売りせよ」と圧力をかけてくる。SNSしかり、組織の中で働くことしかり、です。
この圧力に従わない者には、SNSであれば露出を低下され不可視化されるし、組織の中であれば職場における立場の悪化や人事考課上の冷遇などが起こる。そしてその人は、そこに「いないこと」にされるという、社会的制裁を受けることになります。
この構造が、なんとも、僕には、息苦しく気持ち悪いものに感じられるのです。
僕がこのように「自身が役割に埋没させられること」や「役割に埋没しきって、それを疑うことのない人」に対して強い違和感を抱く理由はなぜなのか? と考え続けています。
なぜこんなに拒否感があるのか? なぜ多くの人は、そこまで抵抗なく役割と人格の切り売りを受け入れられるのか? もしかして、自分が極端に不器用なだけなのか?
などと、日々、自分に問いかけながら、僕は生きてきました。
役割に徹することの「楽さ」
僕の中の違和感を言語化する工程を、次へと進めます。次は、役割を引き受けることによって得られるもの、について考えてみたいと思います。
役割を引き受けることによって得られるものは、おおむね次のようなものでしょうか。
- 何をすべきか、いちいち考えなくていい
- 自分が何者かを、毎回説明しなくていい
- 揺れずにすむ/迷わずにすむ
- 批判が役割に向くことで、人格が直接傷つけられにくくなる
こう考えると、役割は、免責装置のような役割も果たしていることが見えてきました。
- 「〇〇職人だから」
- 「リベラルだから」
- 「会社員だから」
というふうに、現代社会においては、役割は自分を守るための殻として機能します。とても合理的な機能だ、と思います。
それでも残る違和感
ここまで「役割」について説明してきても、僕の中の違和感は一向に消える気配がありません。「お前は〇〇という役割なんだから、こうしろ」
「その立場なら、こう言うべきだ/こういう事は言うべきではない」
こうした圧にさらされたとき、僕が感じるのは、窮屈さというより、
「自分が削られていく感覚」だということが、年齢を重ねるにつれ、わかってきました。
僕は、何事にも是々非々のスタンスでいたいと思っています。矛盾している自分、揺れている自分、それらひっくるめて、僕という人間なのです。
しかし、いったん「僕はこっち側の陣営です」と旗色を鮮明にして表明した途端に、僕の意図しないことまでが枠の中に封じ込まれ、すべきこと/すべきでないことが外側から規定されてしまう。僕は自身を矛盾に満ちた存在だと考えていますが、そのように「混ざったまま考え続ける」ことが、「役割」を引き受けることで、許されなくなってしまう。
僕は、こうしたことに違和感を感じ続けてきたのだろう、と思います。
社会がスタンダードにしている「人間モデル」
ここまで考えてきて、僕が感じている違和感の元は、いわゆる「わがまま」でも「未熟さ」でもなく、社会が前提としている人間像、いわば「人間モデル」への違和感ではないか、と思えてきました。
現代社会が想定している人間モデルとは、以下のようなものでしょうか。
- 自分を説明できる
- 一貫した人格を持つ
- 役割を引き受ける
- 成長やキャリアを語れる
僕が重要だと思っている点は、この「人間モデル」は「目指すべき理想の人間モデル」ではなく、当たり前の前提、標準(スタンダード)として社会の中で認識されている、という点です。スタンダードとはつまり、そのラインを下回ったら「不良品」として扱われるライン、というイメージです。
この「スタンダード以下」の人物像を具体的に言葉にすると、以下のような表現になるでしょう。
- 自分を説明しきれない
- 揺れ続け迷い続ける
- 役割を引き受けない
- 何者でもないまま考え続ける
説明するまでもなく、こうした「人間モデル」は、現代社会においては極めて不利な立場に置かれやすい。なぜなら、このような人物特性は組織の論理や商業主義のメカニズムとは絶望的に相性が悪いからです。ですので、こうした人物のことを僕たちは「社会不適合者」などと呼んでいる。それが今の社会だと、僕は思っています。
キャリアという言葉をどう見ているか
人が「役割」を引き受け、それにどれだけ埋没してきたか、その結果として現れる文字列と抽象的なイメージ。
僕たちの社会ではそれを「キャリア」と呼んでいます。キャリアとは「積み重ね」であるとイメージされやすいですが、僕は別の観点から「キャリア」という概念を見ています。
それは、キャリアとは積み重ねたものの集積体という性質だけではなく、実際には「何を捨ててきたか」「何を演じない・引き受けないことにしたか」という「切り落としの履歴」でもある、という視点です。
これを言い換えると、
社会が評価するのは、
人生そのものではなく、
「どれだけ自分を削って、説明可能になったか」
ということです。
現代社会では、キャリアを持たない人間は排除されやすい。それはなぜか? 「説明できない」「管理できない」「予測できない」こうした特徴はすべて現代社会にとっては「扱いづらい存在」とみなされるからだと思います。
おわりに――それでも考え続ける、という選択
おそらく、僕が抱いている、この違和感に共感する人は、多くはないでしょう。もしかしたら皆無かもしれない。
ですが、僕は、それでもかまわないと思っています。最初にも述べたように、この記事は僕が感じた違和感の記録であると同時に、僕の表現者としてのスタンスの姿勢表明でもあります。
- 代表者にならない
- 誰かの代弁者にならない
- 正解を提示しない
- ただ、視座を置いていく
なぜ人は、ここまで容易に役割に埋没できるのか。
それは本当に「適応」なのか。
役割に回収されない生き方は、欠陥なのか。
僕は、まだこれらの問いに答えを持っていません。
ただ、この違和感を、なかったことにしたくないと思っています。


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