無自覚に使われる「強い言葉」たち

発達障害当事者であり、かつ、
発達特性の凸凹における言語理解が優位な僕は、昔から言葉へのこだわりが強いです。

今日は、そんな僕が、
無自覚に使われがちな「強い言葉」について考えてみたいと思います。

「ダメ」

「ダメ」が口癖になっている人は多い。
他人の質問を受け止めた後だったり、誰かの考えを聞いた後などに
「それじゃダメだ」
と、まず最初に置かれる、あれです。

この「ダメ」は多くの場合「それ全然ダメ」などと、否定の意味をさらに強化する言葉とセットで使われることが多い。

「ダメ」とは、基本的に相手の意見の全否定です。
少し話がそれますが、英語と違って日本語は、
「あなた」と「あなたの意見」、
「私」と「私の意見」、
これら双方の境界があいまいな言語であるため、容易に混同されてしまう特徴があることは、よく指摘されることです。

つまり「ダメ」とは、相手の意見を否定するにとどまらず、同時に
「お前は人間としてダメだ」として伝わりやすい、暴力性を持つ言葉だといえるでしょう。

もう一つ、この「ダメ」について、この言葉がもつ即断性にも言及しておく必要があるかと思います。

つまり「ダメ」という言葉は、
「私は考える必要すらなく、あなたの意見はダメだと即断しました」
というメッセージを、相手に一瞬で伝えてしまう可能性を持っています。

それは、
その意見が検討に値するものではないと判断したこと、
そして、その判断が覆る余地のないものである、
という強い意思表示でもあります。

「ダメ」という言葉は、このように、
使う側の意図とは別のところで、
相手や周囲から解釈されてしまう力を持っている――
僕はそう感じています。

僕は若い頃に、臨床心理学、つまり心理カウンセラーになるための勉強をした時期があります。そこでは「ダメ」をはじめとした言葉が持つ強さ、この言葉を相手や周囲がどう受け取るのか、といったことを学びました。
そして、僕自身もクライアントとして何人かの心理カウンセラーのカウンセリングを受けた経験がありますが「ダメ」を、この記事の文脈で使うカウンセラーには会ったことがありません。

もちろん、僕は「ダメと言うカウンセラーはダメだ」などと思っていませんし、そういうカウンセラーがいても一向に構わないと思います。スタイルは人それぞれでしょう。

さておき、この「ダメ」を多用する人は、しばしば誤解されやすく、その誤解の結果として「高圧的な人」「ウザい人」などと判断されやすい傾向があると思っています。

意図的に自己演出として「ダメ」を多用する人の場合、表情、髪型、服装、振る舞い、それらすべてが高圧力設定に統合されている場合が多いと感じます。こういうタイプの人の場合は「頼れる人」「リーダーの資質がある人」といった、ポジティブな評価を受けることも少なくないと感じます。

しかし、いっぽう無自覚的に「ダメ」を連発する人は、統合感に欠け、どこかチグハグな印象を受ける。それは「ダメ」を、弱さゆえの、自分を守るための鎧として、あるいは他者を傷つけるための凶器としてのカッターナイフとして使っていると感じられるケースがしばしば見受けられます。

そしてその弱さが周囲の人から透けて見えてしまっている場合に、周囲からは「ウザい人」「関わりたくない人」と判断されがちなのではないか、と思っています。

「ダメ」と言いたい場面で僕が脳をフル稼働させた結果、小手先のテクニックとして使うのは、
「僕は別の視点から考えてみたんだけど」、
とか、
「君のアイデアには面白い側面がある。ただ、こういう側面もあると思う……」
などでしょうか。

「だから」

次に「だから」について、僕が思っていることを言葉にしてみます。
「だから」もまた、頻繁に見かける、無自覚に使われがちな強い言葉でしょう。

なお、ここで言う「だから」とは、
「だから今日、僕はチャーハンを選ぶ」という使い方のことではありません。

ここで言っているのは、誰かの質問や意見に対して、
自分の返答の前置きとして置かれる「だから」のことです。

具体的には、

「だから、さっきも言いましたけどね……」
「だから、それはね……」

などのことです。
この類型として、丁寧語としてクラスチェンジさせた「ですから」がありますが、これは文字通り丁寧にしただけであり、基本的に話者の意図は同じであることが多いようです。

この「だから」には、
「何度も同じこと言わせんなよ」
「頭悪いのか?」

といった、相手の意見、場合によっては人格を否定するための、マウンティングの意図が背後にあることが多いと思います。

「論破ブーム」に見られるような、議論の場で相手を打ち負かす空気が良しとされる場面では「だから」は、比較的安全な位置から、有能な自分と無能な相手、という舞台演出を可能にするツールと言えます。

ですが、「だから」は、すでに述べた「ダメ」ほど単純ではありません。
「だから」と、言いたくなくてもどうしても言わねばならない局面があるからです。
ここでは「だから」を使うことを強いられがちな二つの局面について紹介します。

まず一つ目は、相手にどうしても、飲み込みの悪さを気づかせる必要がある場面です。

「だから」と言われない限り、
「自分は同じ質問を繰り返し、してしまっていたのだな」
「自分は質問の文は違えども同じことを聞いてしまっていたな」
と、自覚できない人がいます。

この場合は、「だから」と、もしかしたら強めの口調で言わない限り、会話が平行線をたどるばかりで一向に進展しない。丁寧に言えば言うほど、お互いの認識の現在地がよくわからないことになってしまう、ということが起こりがちです。

このケースは「だから」を、自己の優位さを演出する用途ではなく、ある種の教育的文脈で相手を導くために使わざるを得ない場面だと言えます。

次に二つ目は、個人的に、人間の不完全さを強烈に痛感させられる局面です。

何度同じ質問をしても「だから」を使わない。
何度も同じ言葉で、角度を変え視点を変え、優しく答えてくれる。
こうした、優しい、ないしは、強く出られない相手を軽んじる、つまりは「ナメてかかる」態度を取る人が、一定数存在します。
この事実もまた「だから」の使い方を難しくさせていると思います。

このタイプの人々は、ある種の「テイカー」といえるかもしれません。相手が強く出てこないと見るや、奪えるものは全て奪っておこう、と考える人々――こうした特徴を、テイカーが持つ側面のうちの一つとしてしばしば説明されることがあります。

こうした人々に対峙する状況は「ナメられてはいけない」といった、文明が類人猿の方向に向かって大幅に後退して先祖返りを強いられるかのごとき状況であり、そしてこうした状況の中で人は「だから」を使わざるを得なくなるのだと思います。

「要するに」

最後に「要するに」
これもまた、ある種の暴力性を持つ言葉です。

もちろん「要するに」が自分に向かって使われる場合は、何の問題も摩擦も引き起こすことはありません。「要するに、私がこれまで述べてきたことは……」と述べることは、理解が追いついていない聞き手への配慮という面が強く、さらに「そろそろ話し終えますよ」というクロージングの予告でもあります。こうしたことは良いスピーチの条件として説明されることも多く、何ら問題はないでしょう。ここには、他者を引き下げ、自分を引き上げんとするよこしまな意図が潜んでいるケースは、ほぼないのではないでしょうか。

ですが、他者に向けられる場合、「要するに」は、先に述べたように暴力性を帯びてきます。
「要するに」が持つ暴力性には、大雑把に三つの方向性があると思います。

まず一つ目は、
「あなたの話、私ならもっと短くまとめられますよ。
私はあなたよりも優秀ですから」
という、マウンティングのメッセージが秘められたタイプです。これには「自分はちゃんと周りの聴衆にも配慮できる人間なのだ」という自己アピールも含まれています。

次に二つ目は「話し手の言葉の価値の否定」とでも言うべきケース。
つまり、たとえば話し手が1000文字分の言葉を話したとします。その話し手に対して、
「1000文字も熟考させられるのは面倒くさい。100文字にまとめろ」
と突きつけることです。これは、そもそも相手の話の内容をすべて聞く気がない、という意志の表明です。

別のパターンとしては、
「1000文字すべて熟考したが、そのうち価値があるのは、せいぜい100文字だね」
というものもあるでしょう。利害が対立するビジネスの場で、交渉の端緒として使いやすい表現です。

最後に三つ目ですが、話し手の意図を巧妙に曲げ、強引に自分が得意とするフィールドに引き込むために「要するに」が使われるケース。話し手がその歪曲に気付けない場合「要するに」の持つ暴力性の度合いは増します。会話を終えた後「言葉にできないが、なんか不快だ」などと感じやすくなる。

「要するに」という言葉には、ここで紹介した三つにとどまらず、もっと多様な暴力性が秘められていると感じた人もおられるかもしれません。その可能性の多様さが「要するに」を突きつけられた側、あるいは周囲の者にとっては不安を煽られやすく、結果として「コイツ出しゃばりだな」「なんかコイツ胡散臭いな」といった感情を引き起こす、という空気があるのではないかと思っています。

この「要するに」が醸し出す、なんともいえない不快感を軽減するのは、実はそれほど難しいことではありません。

たとえば、
「すみません。私の理解力が及ばず分からない点がありました。つまり、おっしゃっていることは、こういうことでしょうか?」
などと、自分を下げ、回りくどく言い換えることでしょう。

ですがこれも「要するに」が持つ暴力性は軽減されているとは言え、この言葉が持つ本質は変わっていないと感じます。要するに、小手先でしかありません。

言葉狩り、無色透明な人

この記事を通して、僕は、無自覚に使われがちな強い言葉たちについて言葉にしてきました。
しかし、それは決して「こういう悪い言葉を使わないようにしましょう」などと言いたいからではありません。

僕は1975年生まれです。
いわゆる「言葉狩り」が社会の中で機能していくさまを、
現実の風景として見てきた世代です。

だからこそ、言葉狩りがもつ不毛さや虚しさ、
そして、その背後にひそむ恐ろしさについて、
ある程度の肌感を伴って理解しているつもりです。

言葉狩りは、
時代の空気や歴史的文脈、そこにあったはずの風景を切り捨てるだけでなく、
物事の本質から人々の関心を遠ざけ、
結果として問題を先送りにさせてしまう力を持っています。

ですので、この記事を書く僕の動機は単純です。「誤解されがちな人」や「無自覚に損をしている人」に、ちょっとした別の視座を提供できたら、それで満足なのです。

もう一つ、これは自分の失敗談から言うのですが、
日常生活において強い言葉を使うことを避けていくと、だんだん「無色透明な人」になってしまうのです。

言葉に対するこだわりが、発達障害当事者であり生きづらい僕を助けてくれた面は大きいと思っているのですが、このこだわりが逆に僕の生きづらさを強化してしまった面もある。

心理士など相談の専門家は、職業上の人格とプライベートのそれの間に明確に境界を引くことを徹底して行っています。それは自分の心を守るために欠かせないことです。

しかし、若かった僕は自分の人格に、
「強い言葉は避けるべき。そうすれば他人から理解されるはずだ」というプログラムをインストールしてしまったのです。これは独習者が陥りがちな罠であり、独習の限界と言えるかもしれません。

強い言葉を使うことを避けていれば、敵を増やす危険性は減らせるかもしれない。
「あの人は否定しない」「あの人はマウンティングしない」という、心理的安全性を売りにした個性が評価され、コミュニティの中にポジションは得られるかもしれない。

だがそれは同時に「何を考えているのかわからない人」「無色透明な人」という評価と紙一重なのです。

強い言葉を多用する、もしかしたら周囲からウザがられ、疎まれるような人でも、それは「キャラが立っている」という点で、無色透明な人よりも生存には有利になる局面も多々あるということです。「あいつは無害だが何を考えているのかわからない」もまた、排斥の対象になりうることは忘れてはならないことだと思います。

おわりに

特に、発達障害当事者に伝えたいことがあります。

臨床心理学を学ぶことで、
定型発達者と発達障害当事者のあいだに、
新しい言語をつくり、橋を架けることは、確かに可能だと思います。

それは、個人的な生きづらさを軽減してくれることもあるでしょう。

ただし、その過程で、
自分自身の言葉まで削ぎ落としてしまわないように、
僕は、強く自戒しています。

強い言葉は、他者を傷つける刃にもなりますが、
同時に、自分がそこに「在る」ことを示す輪郭にもなります。

その輪郭を、すべて消してしまわないこと。

どの言葉を使うか、使わないか、
ということよりも、
どの言葉を引き受けて生きるのか。

僕はいまも、その問いの途中にいます。

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