某精神科医インフルエンサーの発言が炎上したことを、先日知りました。
今日は、発達障害当事者である僕が、
今回の炎上について思ったこと、
精神科医という職業についてどのように見ているのか、
さらに「AI台頭時代」を経て精神科医という職業は今後どのように変わってゆくのか、
など、言葉にしたいと思います。
この炎上をどう見たか
この炎上騒動を要約すると、介護職の低賃金を嘆き、憤りの声を上げる投稿に対し、精神科医が「ではなぜその職を選んだのか」「他に選択肢がないなら仕方ないのでは」といった趣旨で反応したため、世間に反発が広まった、というものです。
最初に言葉にしておきたいことは、僕はこの記事を通して誰かを裁きたいとか、擁護したいとは思っていない、ということです。ですので医師の名前も表記しません。それは僕の今回の記事において重要な意味を持つとは思えないからです。僕は単純に、今回の現象を僕がどう見たのか、について、言葉にしたいと思ったのです。
分断はどこで起きているのか
まず僕が感じたことは、また一つ社会の分断があらわになった一件だな、ということでした。
低賃金で働き、物価はどんどん上がり、税金や保険料は下がらず、
それでも人間らしくあろうと、日々、もがいている人々。
この医師は、はたしてそうした人々の心情を、解像度高く、深度深く、理解していただろうか? と考えてみると、おそらくそうではなかったのではないか、と僕は思うのです。
自分とは異なる階層にいる人々のことが、よくわからない。
これがさらに進行すると、
「あいつらが何をやっているのか、わからない」
となり、次の段階は、
「あいつら、気持ち悪い」、
「あいつらは怖い」
となります。これを僕は「分断」という言葉で表現します。こうした分断は、人間の歴史を見れば枚挙にいとまがなく見ることができる現象だといえます。
もちろん、僕自身もまた、理解できていない側に立つことがある。
分断は、常に「向こう側」にだけ存在するわけではありません。
個人的な経験から言えるのですが、人は自分が歩んできた人生とは異なるレイヤーに存在している物事のことは、決して理解することはできない、というのが僕の考えです。これは別に医師に限ったことではないでしょう。
では、分断にどう向き合うのか。この議論は概ね二つに別れるのが常です。一つは社会に多様性を担保すること、もう一つは、さらに格差を加速させ、ゲーテッド・コミュニティを許容する社会にすること、です。
前者でいう多様性とは、性別や人種などに基づく多様性ではなく、日本社会の中での社会階層における多様性という意味で使っています。具体的に言えば、僕が少年時代を過ごした環境には様々な背景を持つ人々が存在していました。在日コリアン、被差別部落、企業経営者で地元の名士の子もいれば、ヤクザの子もいました。ここで僕が多様性と言っているのは、そうした社会階層における異文化混在の状況のことです。
そうした社会は、はたして正解だったのか、そして僕にとって正解だったのか? 僕には確たる答えがありません。ただそれは、多様性が一定程度、実現されている場所だった、とは言えるでしょう。その中で僕は、社会に多様なレイヤーが存在することを人生の最初期において見ることができた、ということだけは、言えると思います。
後者のゲーテッド・コミュニティについては、そこに住めるのは「勝者」だけであることは言うまでもありませんが、そこに存在し続ける資格を守るためには、
走り続けなければならず、
勝ち続けねばならず、
止まることは許されず、
そこに住む資格を失った者は、
有史以前の野生の論理が支配する、文明が喪失した非情なスラムを前に家族もろとも立ち尽くす。
そんな社会であることも考慮する必要があるでしょう。
はたして、日本はどちらに向かっているのでしょう。
精神科医という「役割」への期待
次に、今回の件で大事なポイントは(臨床の)「精神科医」という社会的ポジションに対する世間の期待値についてです。
精神科の患者とは精神疾患を抱える人々であり、精神疾患を抱える人々は様々な社会的背景から経済的弱者となりやすいことは事実でしょう。そして、そうした人々と日々、顔を合わせて接している精神科医に対して「寄り添う人」「弱者に共感する人」であってほしいという期待、ないしは、そうあるべきだ、という期待が世間にはある、と思います。
ですので、その期待に反する言動が精神科医のふるまいに見られたとき、人々の心のなかには「信じていたのに」「裏切られた」という感情が生まれる。そして炎上し、場合によってはキャンセルカルチャーが起爆する。
もう一つ言えば、医師というポジションは少々乱暴な言い方をすれば、庶民のルサンチマンのはけ口となりやすい側面があることも否めない事実だと思います。勤務医の平均年収はおおむね1,200万円とされ、これはサラリーマンの年収平均の4倍にもなります。
ただここで僕の心に浮かんだことは、そもそも精神科医って「寄り添い」や「共感」を要求されるような仕事ではないのではないか? という観点です。
日本には古来から「医は仁術」という言葉があるし、西洋にも古代より「ヒポクラテスの誓い」といった、医師に対して厳しい倫理を持って自己を律することを説く理念がありました。
しかし現代の医師はどうでしょうか。現代の医師は、慈善家でも篤志家でもなく、科学者として位置づけられています。この考え方に抵抗を感じる人もおられるかもしれません。もちろん医師に高い倫理観が求められることは当然です。しかし、だからといって、医師が自身の職業的アイデンティティを科学者であると置くことは、別に社会的に責められるようなことだとは受け止められないはずです。ですので、良しきにつけ悪しきにつけ、医師は科学者であるという観点は、僕たちは忘れてはならないのではないか、と思うのです。
僕は「精神科医に共感は必要ない」と言いたいわけではないし「共感できない医師は悪だ」などと言うつもりも毛頭ありません。ただ、現代社会における精神科医の仕事の核は、寄り添いや共感というよりも、評価と介入(診断・治療)にある、ということは抑えておく必要があるのではないか、ということです。
当事者として見てきた精神科医たち
一部の精神科医や識者は、精神科医の自殺率の高さや、その背景にある精神科医師の教育構造について問題提起しています。高い自殺率の原因を、精神科医の多くが教育課程で心理カウンセリングを学んでいないこと、とする人もいます。この考え方を借りれば、現代日本の精神科医は「人の話を聞く」訓練を十分に受けているとは言い難く、さらに「自分を律し、守り、癒すスキル」を身に着けないまま臨床の現場に出ているケースが少なくない、という現状が見えてくるように思えます。
これは、僕の実体験からも、うなずけると感じます。僕は発達障害の当事者であり、加えて二次障害も起こしていますので、いわゆる「強靭なメンタル」を持つ人々、つまりゲーテッド・コミュニティに余裕で住み続けられそうな人々と比べれば精神科医は多く見てきたつもりです。
実際に、精神科医という人々には、少々、変わった人が多いことは否めないかと思います。僕の実体験として3人の医師の例をあげます。もちろんこれは、精神科医全体の話ではありません。あくまで僕が当事者として出会った「個別の人間」の話です。
一人目は、診察中、一度もこちらと目を合わせない医師。
教科書を丸暗記した文章をそのまま読み上げているかのような、立て板に水で専門用語が次から次へと飛び出してくる。こちらの理解を確認する様子はほとんどない。やっと医師の話が途切れたところでやっと僕が質問すると、その意味を理解するのに数秒を要したあと、美しいまでにズレた返答が返ってくる。
その時、僕は「あ、この人は機能が限定された機械のような仕様なんだな」と思いました。機能外の動作をこの人に要求するのは無理、ということなのでしょう。それはたとえばコンビニで「ヒゲを剃ってくれ」と頼んだり「オレの車、洗っといてくれ」などと、機能仕様にないサービスを要求するようなものなのかもしれません。
二人目は、初診時、つまり初対面で「ところで君、どこの大学を出ているの?」と聞いてきた医師。
僕が「いやあ、大学は中退しました」と答えると、彼は、あからさまに口をとがらせ、片目を釣り上げて、まるで拗ねた幼児のような表情を浮かべ「だからさ、どこの大学かって聞いてんの」と言う。
僕が大学名を答えると彼は、先ほど見せた拗ねた幼児のような表情をすっと引っ込め、代わりに、得意げな満面の笑みを浮かべて「ふうん、僕はね、実はこう見えても〇〇大学でね」と誇らしげに言ったものでした。
最後は、これまた初診の話です。問診中に、記憶にない過去のことがらについて医師から尋ねられ、僕はスマホを取り出し、画面を見つめながら操作していました。そのとき、ふと「何か変な音がするな」と違和感を感じ、音のした方、つまり医師に視線を戻したのです。すると、その医師はまるで、金魚のように口をパクパクさせながら、目を大きく見開き、首を不自然に曲げるそぶりをして、僕のスマホを覗き込もうとしていた。僕が違和感を感じた音とは、その医師が口をパクパクさせる際に唇がくっついては離れる音だったのです。
僕が視線を医師に戻すと、医師は、大変に芝居がかった、驚いたような表情を浮かべてから、落ち着いた表情に戻り姿勢を正す。そしてまた僕がスマホに目を戻すと、彼は「金魚」に戻る。
誤解していただきたくないのですが、こうして自身の体験に基づく実例を言語化しているからといって、僕は、彼らを悪だとして断罪すべきとか、彼らが劣っているとか、そういう思いは毛頭ありません。
ですが、精神科医が自己PRとして「私はコミュニケーションが苦手です。それは否定しません。ですが、〇〇については絶対の自信があります」などといった自己PR文を院内掲示やWebサイトなどで示している例を僕は見たことがない。患者の立場のみから言えば「当たりかハズレか、会ってみるまでわからない」という状況を強いられているとも言えます。
そして、そうした自己PRを事前に示す責任を医師に負わせるべきという風潮も存在しない。その理由として、医師という職業が強力な権威性に守られているという事実があることもまた、言語化しておく必要があると思っています。これは先に述べた「分断」とも繋がることです。
専門家としての人格と全人格は異なる
今の社会、とりわけネット社会に対して思うことですが、ちょっと専門家偏重がすぎるのでは、と僕は感じています。どこのメディアを見ても、専門家、専門家。専門家は、何を言うか、どこまで言うのか、言えないことは何か、といった枠組みが明確です。ですので、番組制作サイドとしては、とても扱いやすい素材だ、ということは理解できるのです。
ですが、忘れてはならないのは、専門家も人間だ、ということです。
専門家がSNS上で見せる人格も、メディアに出る専門家のイメージも、そこにあるのは「切り取られた個人」でしかない。それは彼や彼女らの全人格ではない。現代の社会では、これが忘れられ「専門家」というポジションがまるでその人の全人格であるかのように認知されがちだと思うのです。
その結果として、今回のようなことが起こるのかもしれない。最初に述べたように、僕はこの記事を通して誰も裁いたり擁護する気もありません。ただ、精神科医とて人間だ、極めて不完全な人間という存在だ、という視点は、忘れたくないと思っています。
精神科医の未来とAI
以下は、少し極端な考えだと感じる方もおられるかもしれません。
ですが「寄り添い」「共感」を、個人に体験させる、というミッションに着目し、全国の精神科医の平均の患者満足度と、AIのそれとを、もし比較したとしたら、すでにAIのほうが上回っているのでは? と僕は思うことがあります。
上述した3つのケースのようないわば「エラー」は、AIの場合、起こりようがない。それに、日本の医療制度においては、俗に「診察時間5分問題」などとネガティブに語られることが多い構造的問題が存在することも事実です。わずか5分の診察時間を重ねたとて、患者が抱える問題を看破して正確に診断を下すなど、極めて困難なのではないでしょうか。
いっぽう、AIはどうでしょうか。今では多くの人がChatGPTやGrok、Geminiといった生成AIを使い、一日のうち多くの時間をそれらAIとの情報交換に費やしている。個人の考え方の癖、抱えている心の傷の記憶、生来の特性の分類など、その情報量は膨大なものになるはずです。これは診察室だけで5分診療を継続するという枠組みのもと人間の精神科医が得られる情報量を遥かに超えるものでしょう。
もちろんAIにも問題は山積みです。生成AIを展開するのはGoogle、OpenAIといった私企業であり、彼らが展開するAIは、それら企業の利益を最大化することを目的としています。それに生成AIの使用を巡るトラブルは世界中で毎日のように起こっているのが現状です。ですのでこうしたプラットフォームに、医療に求められる高い倫理性を期待することは、今の時点では無理があると言わざるを得ません。
ですが、日本における人間の精神科医という存在も、次のような制約や課題を抱えているのも事実ではないでしょうか?
暗記能力や試験合格に最適化された人材に、
過度に偏ってはいないか。
また、ごく一部とはいえ、
精神科医と患者との不適切な関係性が問題になる事例を、
私たちはどう受け止めるべきなのか。
学歴でも所得においてもエリートとされ、社会の上層に位置する医師は、
社会の底層で生きる患者と、どう向き合うべきなのか。
患者の利益を優先した人間的判断が、
制度上の「逸脱」として扱われ、
医師自身を周縁へと追いやる構造が、
固定化してはいないか。
そして大前提として、精神科医に限らず、
人間は不完全で、うつろう。
長く生きるにつれ、うつろいやすくなる、迷いやすくなる
そしてときに、判断を誤る。
少なくとも「寄り添い」「共感」という点においては、人間の精神科医がこれまで独占してきた役割は、すでに揺らぎ始めているのかもしれない、という考えは、飛躍しすぎでしょうか。
そうなってくると、
精神科医という職業の実務のあり方だけでなく、
精神科医が社会の中で
「どの責任を引き受け、どの責任を引き受けないのか」
という線引きそのものが、
改めて問われていくのかもしれません。


Comment