「排外主義」に発達障害当事者が思うこと

このところ頻繁にメディアで目にするワード「排外主義」。

昨年の参院選以降、メディアでは「排外主義の台頭を懸念」する記事をよく目にします。

今回の記事は、発達障害当事者の僕が「排外主義」について思っていることを、言葉にして置いておきます。

「排外主義」の深層にあるものは「不安」

僕は、「外国人問題」に総括される今の日本の風潮を「排外主義」と一言で断じてしまうことは、現象の本質を見誤ってしまうと思っています。なぜそうした風潮が生まれたのか、本質に目を向ける必要があります。

じっさい、自民党政権は長年にわたって、経済団体の要請のままに「技能実習生」「外国人材の登用」など、まやかしとも思える言葉を用いて事実上の移民政策を推し進めてきました。この政府の国民目線から乖離した姿勢は、多くの人々を不安にしてきたはずです。

それは、自分たちの預かり知らぬところで権力者たちによって勝手に物事が決められ、声を上げても、その声は、意思決定の場には届かない。自分たちの領域がどんどん侵食されている。私たちはこの先、どうなってしまうのか? という不安です。

さらに、残念なことですが、リベラル勢力もまた、本当に救いが必要な層に、本質的に手を差し伸べてきたとは言いにくいように、僕には感じられます。
権利や理念を掲げること自体は重要ですが、それが、生活の不安や孤立を抱えた人々の日常と、どこで、どう接続されていたのかは、必ずしも明確ではなかったと思えます。

実は「排外主義」が進んでいるように見える現象の深いところには、こうした人々の不安と政治への不信があり、昨年の総選挙で躍進した政党は、そうした不安な人々の声をすくいあげたのだと思います。

こうした考えから、僕は、現在の日本の排外主義はカッコ付きの「排外主義」として僕の中に置いています。それはつまり、未確定ということです。

発達障害当事者が、「排外主義」に思うこと

日本で徐々に影響力を伸ばしつつある「排外主義」について、僕の考えを言葉にします。僕は、カッコ付きであろうとも排外主義には反対の立場です。それは2つの理由があります。一つはリアリストとして日本が置かれている状況を観察したときに見えてくること、もう一つは、僕が発達障害当事者として見てきた視点からの思いです。

日本のエネルギー自給率

まず、僕が排外主義を警戒する理由の一つ目ですが、それは「差別はよくない」とか「人間はみな理解し合えるはず」といった、ヒューマニズム的な観点からではなく、日本が置かれている状況をリアルに直視した結果として得られた考えです。

現在の日本のエネルギー自給率は、約15%といわれます。つまり、足りない分は外国から輸入するしかないわけです。

それなのに、もし日本で排外主義が加熱し、外国人への偏見や差別の空気が支配的になり、外国人商店の焼き討ちや、外国人へのリンチなどが当たり前に起こるようになったら、外国との関係が損なわれる可能性が高まります。外国との関係が損なわれたら、貿易が止まる。

そうなったら悲惨です。エネルギーが止まったら、農業も、物流も止まり、食料を流通させることもできなくなります。こうなると「なら原発を動かせばいい」という主張も出てきそうですが、東日本大震災以降、政治家も官僚も、いや、あらゆる人々にとって、この話題は触れたくない話題になっています。

それはそうです。「エネルギー自給率の問題を解決するために私たちの町に原発を誘致しましょう」などという政策を掲げる候補者は、まず当選することはないでしょう。

こうした背景から、エネルギー自給率の問題は宙に浮いた状態が続いており、それは今後も続くのではないかと思います。つまり日本はエネルギーを外国からの輸入に依存せざるを得ない状況は続く。ですので、日本で排外主義が影響力を持つことは、日本にとって非常にまずい事態を招く可能性があります。

発達障害当事者として

次に、僕が排外主義を警戒する理由の二つ目は、僕が発達障害当事者として、社会が異質なものをどのように扱い、線を引いてきたか、を自分の目で見てきたこと、そしてそれらがしばしば「正しさ」や「秩序」の形を取って行使されてきたことを、自分の目で見てきた経験があるからです。

排外主義の主要論理の一つは、外国人は「文化が違うから」「空気を読めないから」、入れるべきではない、排除するべきだ、という理屈です。人間の歴史を見ればわかるように、排除の基準は国籍では止まることがない。異なる存在は排除していいのだ、となったら、

  • 「日本人であっても協調性が低い奴は排除すべきだ」
  • 「生産性の低い無能は、いないほうが社会のためだ」
  • 「義務を果たしていない者の権利は制限されて当然だ」

までは、あと一歩です。

「空気を読めないから」「慣習に染まらないから」という理由で人間を排除する構造がもつ冷たさと絶対的重量を、
僕は、よく知っているつもりです。

単純労働移民には反対

しかし僕は、単純労働移民には反対です。でも「日本が好きで、日本語を学び、日本の文化を理解し、同化できるものなら同化したい」と考える外国人については積極的に受け入れるべきだと思います。

単純労働移民システムは、分断や格差、抑圧と差別を生みやすい構造を持っています。抑圧された側は必ず、応報しようとします。いくつかの国で、移民政策が社会的分断を深めてしまった事例を見ていると、日本「だけ」が、このシステムをうまくハンドリングできるとは、僕にはとうてい、思えないのです。

しかし同時に、他の国の人に「お前の国の文化は捨てなさい。言語も捨てなさい。日本に同化しなさい。そうすれば受け入れてやる」という態度は、極めて傲慢であることも忘れてはならない、とも僕は思います。

ですが、移民を受け入れた結果、どうもうまく行っていない、対立と分断だけが拡大してしまった諸外国の失敗の様子を見ると、この傲慢な態度で移民を考える立ち位置が、現時点の人間にできる限界なのではないか、とも思うのです。

僕には、移民政策をめぐる議論が、「受け入れるか、拒むか」という二択に押し込められているように見えます。

本当は、その間に、もっと不格好で、扱いづらい問いが残っているはずなのに。

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