「カサンドラ症候群」が語れなくしているもの

近年、メディアで「カサンドラ症候群」について目にする機会が増えてきたと感じます。

それら情報の大半が、
「男性の発達障害当事者=加害者」
「女性の定型発達者=被害者」
という、なかば固定化されたアングルを前提として語られていることが多いと感じています。

今日は「カサンドラ症候群」について、
発達障害当事者である僕が感じている違和感を言葉にしてみたいと思います。

「カサンドラ症候群」とは

まず「カサンドラ症候群」とは何なのかについて、僕の考えを示しておきます。

「カサンドラ症候群」とは、医学的診断名ではなく、
定型発達者と発達障害当事者の間におけるコミュニケーション上の相互理解の困難さから、定型発達者側が精神的な負担や苦痛を感じ続ける状態を説明するために用いられる概念です。

「カサンドラ症候群」を語る際によく用いられる説明を、僕の言葉で整理すると、概ね次のような全体像になります。

カップルの一方である定型発達者は、「普通」「当たり前」「みんなが自然にやっている」とされる情緒の交換を、発達障害当事者であるパートナーに無意識のうちに求める。
しかし、発達障害当事者であるパートナーは、その情緒的要求に対して、定型発達者が期待するかたちで「適切に」応じることができない。

このすれ違いが繰り返されることで、定型発達者の側には、「伝わらない」「理解されない」という感覚が徐々に蓄積していく。やがてそれは、不満や不安として自覚されるようになり、定型発達者は友人や家族に相談する。

ところが、返ってくるのは、
「考えすぎではないか」
「あの人にも良いところはある」
「その程度の違和感なら、どこにでもある」
「被害妄想ではないのか」
といった反応であることが少なくない。

このとき、定型発達者が自分の苦しさを十分に言語化できていない場合、すなわち自分でも「何が、どのようにつらいのか」を整理しきれていない場合には、その訴えはなおさら軽く扱われやすい。結果として、相談は問題の共有につながらず、むしろ「自分の感じている苦しさは取るに足らないものなのだ」という感覚を強める方向に作用してしまう。

こうして、定型発達者は不安や孤立感を一人で抱え込むようになり、最終的には適応障害やうつ病といった、明確な病理の水準にまで追い込まれてしまう。
それは、本人が発した言葉が、周囲によって、十分に受け止められなかったから。

以上が、僕の理解している「カサンドラ症候群」の典型的な概念構造であり、この問題を語る際に、しばしば前提とされている枠組みだと思っています。

カサンドラの物語

では「カサンドラ症候群」のカサンドラとは何のことなのか――

カサンドラ(カッサンドラー)は、ギリシア神話の登場人物であり「トロイの木馬」で知られる都市「トロイア(イリオス)」の王プリアモスの娘だった。

神アポローンはカサンドラに預言者の異能を与える。しかしカサンドラがアポローンの求愛を拒んだことに激怒したアポローンは、カサンドラに与えた予言の力を取り上げることはせず、代わりに呪いをかけた。

お前の予言はすべて的中する。
だが、誰一人として、その予言を信じない。

その後、カサンドラは、トロイア戦争の破滅、木馬の罠、トロイアの滅亡などを何度も予言して人々に伝えたが、誰も彼女の言葉を信じず、彼女は狂人扱いされる。

結果としてトロイアは滅び、カサンドラも悲劇的な運命をたどる――。

この物語は、

誠実に真実を語っているのに誰にも信じてもらえないこと、
理性ではなく集団心理によって圧殺される声、
「声が誰にも届かないことは、罰である」

といった、社会構造的観点からも、現代にも通じる示唆に富んだものとなっています。

僕は別の記事で、
「発達障害当事者にとって情報の交換はご褒美」、
「発達障害当事者にとって情緒の交換は義務・仕事・苦役」
という文脈の記事を公開しています。

「カサンドラ症候群」を引き起こす、さまざまな背景の一つとして、定型発達者と発達障害当事者の間におけるこうした「情報と情緒の感じられ方のズレ」があると僕は思っています。

男性=加害者、女性=被害者、という固定されたアングル

さて、「カサンドラ症候群」について取り上げる情報に触れるたび、僕がいつも感じる違和感があります。

それは、それら情報のほぼすべてが、男性の発達障害当事者を加害者、女性の定型発達者を被害者、とするアングルに固定されて伝えられていることです。

これは、なぜなのだろう? どのような背景があるのか?

この疑問について考えていくこと、
これが、僕にこの記事を書かせた動機です。

カサンドラの物語が持つ、強力な「悲劇の女性性」のイメージ

カサンドラの物語についてはすでに紹介しましたが、この物語が持つ多様なメッセージのうちの一つ、極めて強力なメッセージとして、悲劇の女性性、という文脈が挙げられます。

この文脈は、定型発達者の女性が発達障害当事者の男性をパートナーに選んだものの、彼が何を考えているのか理解できない。普通の人と同じように、みんなと同じように、共感しあえない。
こうしたことに苦悩する女性の心にストレートに響き、自身をカサンドラの身に重ね合わせて感情移入するのに適した構造を持っています。

そして、この、カサンドラの物語が持つ悲劇の女性性が「男性加害者、女性被害者」にアングルを固定された情報が大量に生み出される現象を引き起こしている一因だと思います。

加えて日本には、自身の弱者性を言葉にする男性が極めて少ないこともまた、この状況に拍車をかけているかもしれません。つまり、声を上げる女性はいくらでもいる、となればメディアの側としては企画の再生産が容易になる。一方、男性はというと声を上げる人は極少。やっと見つけた、となっても「顔出しNG」だったりすると記事としてのインパクトは弱くなる。そうなると企画そのものが成立しにくい。

このように見ていくと「カサンドラ症候群」という見出しで記事や動画を企画した段階ですでに「女性=被害者、男性=加害者」という構図でもって内容が固定化されてしまうことは、どうしても避けられないことだと思えてきます。

恋愛ができる発達障害当事者男性は強者なのか

もう一つ、僕が考えていることがあります。

「カサンドラ症候群」と呼ばれる状況が成立するには、つまりは恋愛や結婚におけるパートナー間で、問題として浮上するためには、前段階としてそうした親愛的関係を成立させる必要があることは言うまでもありません。そもそも、そうした関係を他者と結べない人々にとっては「カサンドラ症候群」は無縁、ないしは縁遠い話となります。

僕が発達障害当事者男性を見ていて思うことは、
そもそも、恋愛ができる発達障害当事者男性というのは、日本の発達障害当事者男性の全体から見れば、強者といえるのではないか、ということです。

ここでいう強者とは、
コミュニケーション強者、
経済的強者、
学歴的強者、
血統的強者、
といったさまざまな観点から、日本の社会の中で優位なポジションを得やすい人々の総体だと捉えていただきたいと思います。

日本において恋愛文化は、「暗黙知を競い合うバトル」という側面を強く持っています。

明文化されないルール、
人間間の関係性のグラデーションや序列の理解、
男性に対しても課される感情労働の要求。
これら暗黙知を把握し、ベストな立ち回りができるかどうかは、日本社会において「弱者男性」と「強者男性」が定義されるうえで極めて重要な役割を果たしています。

そして、このバトルは、恋愛の範囲にとどまりません。

日本では「恋愛下手」はそのまま「社会人としての至らなさ・未熟さ・欠陥」と判断されやすいため「恋愛下手」はそのまま、その男性の強者度を測る尺度とされがちです。そして言うまでもなく、おそらく日本に限らず、社会における強者度は、女性がパートナーを選ぶに当たり非常に重視される項目だと言えます。

こうして見ていくと「カサンドラ症候群」が説明されるときに問題にされることが多い、
「発達障害当事者男性=加害者」
の多数派のペルソナとして、次のような人物像が浮かび上がってくるように思えるのです。

良好な家庭環境に生まれ、自己を否定されることなく育った男性。
言い換えれば、勝ち続けてきた男性。
勝ち続けてきたゆえに、社会性の面において挫折の経験がなく、社会からの圧力による強制的な「調整」「修正」の必要性に迫られた経験が稀薄な男性。

こうしてみていくことで、日本で注目されるワードになりつつある「弱者男性」という概念と重ね合わせて考えていくことで、そこから見えてくるものがあるのかもしれない。

しかし、この「恋愛できる時点で強者」という観点には、日本ならではともいえる落とし穴があるとも言えます。

恋愛市場が生み出す誤解と圧力

日本では、男女を問わず「恋愛経験があるかどうか」が、その個人の社会適応力を測るうえで過剰に用いられてしまう状況が長く続いています。男性の場合には「童貞」という言葉が用いられます。この言葉は、個人史において性交を体験したことがあるかどうかを規定するためではなく、その個人がこれまで他者と恋愛関係を結べたかどうか、つまり、恋愛関係を結べるほど社会に適応した人物なのかどうか、そうした観点から個人の人格を規定するために用いられています。

この背景には、1980年代後半から強力に日本人のメンタリティを支配し続けている「恋愛市場」の影響が大きいと思います。

恋愛市場とは「マッチングアプリ」や「結婚相談所」などの業種に代表されるような特定の市場を意味する概念ではありません。服装、美容、自動車、日用品、飲食、音楽、映画・漫画などの各市場における消費行動を喚起し、各市場における利潤を最大化するための包括的な超巨大市場のことです。

恋愛市場においては「そこのあなた、弱者だと思われたくないですよね? だったらこれをお使いください」という明確なソリューションが明示され、それに喚起された消費活動が起こることによって超巨大市場として成立しています。

米国のゴールドラッシュを用いた格言に「一番儲かったのはつるはしを売った人だった」というものがありますが、日本の恋愛市場の原理のもと流通する商材は、ツルハシはもちろんのこと、この市場で勝つためのあらゆる商材が取り揃えられています。

ここで、恋愛市場の巨大すぎる影響力は、以下のような錯誤に基づく空気を社会に発生させます。
「恋愛できるなら弱者じゃない」
「弱者でない奴が泣き言を言うのは許さない」
「あの男性は、ちゃんと恋愛できたんだから、間違っているのはあなた(女性)のほうなのでは?」

こうした集団的・社会的誤解が広まることで、
男性発達障害当事者は自身の苦しみを言葉にできず、
女性定型発達者は「悪いのはお前だ」と断じられてしまう。

こうした風潮が生まれている側面もあるのではないでしょうか。
そして、パートナーの関係性が破綻したときには「疑似強者」ともいえる男性側が、半ば一方的に責任を問われる、という状況が生じてしまう原因にもなっているように思えます。

発達障害当事者が理解できず苦しむのは男性も同じ

ここで、日本の文化的背景にさらに注目してみます。

日本の多くのメディア報道は、以下のモデルを前提に組み立てられていると感じます。

感情労働は女性の役割、
関係調整は妻の役割

この構造の中では、男性と女性に対して、それぞれ次のような圧が加えられています。

男性は感情を言葉にすべきではないし、弱者性を告白してはいけない
女性は共感的であらねばならないし、言葉にせずとも察せねばならない

このように見ていくと、日本人は男女に限らず、生来の特性・気質にそぐわない重圧にさらされているように思えます。

男女のどちらがより深刻なのか、それを規定することに、僕は意味を見出しません。
ですが、現在の日本は、発達障害当事者女性をパートナーに持つ男性の苦悩に耳を傾けるための空間が、社会の中において、あまりに希薄であることは事実なのではないでしょうか。

ですが、繰り返しになりますが、
カサンドラの物語を用いることで、発達障害当事者と定型発達者の間にある情緒的亀裂と、それがもたらす心的外傷体験を語ろうとするならば「男性=加害者」というアングルから僕たちは自由になることは極めて難しいのではないか、と思えます。

僕たちは、違った観点からの、新しい物語を必要としているのではないでしょうか。

新しい物語

新しい物語、といっても、これを単なる男女の立場入れ替えや、
「男性だって被害者だ」と対抗するだけの物語では、この役割は担えないのではないでしょうか。

ここで僕が述べたいことは「誰が、より不幸なのか」を競うことではありません。
その競争そのものが、すでに誰かが作った物語の内部でしか駆動できないものだから。

新しい物語を作るために必要な観点は、物語の主語を「人」から「構造」にすることによって描けるのではないか。

それは、たとえば、次のような物語――

私たちは、
情緒を主な言語とする人間、
情報を主な言語とする人間、
これらが、親密であることを前提に結ばれてしまった。

この関係は、最初から、
「どちらかが翻訳者になる」ことから逃れられない構造だった。

そして、翻訳を引き受ける側が、
ある日、限界を迎えた。

これは誰かの罪ではなく、
設計の問題だった――。

この物語構造では、カサンドラの物語を、女性の悲劇ではなく「真実が届かない構造」そのものとして読み、再配置しています。

おわりに

僕たちは「カサンドラの物語」に代わる物語を必要としています。

それは「誰が被害者か、加害者か」を決めるための物語ではなく、
親密性・恋愛・結婚を「感情の相互翻訳が当然成立すべき場」とみなす社会前提そのものを問い直すための物語、なのかもしれません。

人間の長い歴史において、発達障害当事者もまた、ずっと存在し続けてきたならば、
僕たちの歴史には、数多くのカサンドラがいたはずです。
ではどうやって、人々は折り合いをつけてきたのか。

僕たちは今、当然とされているものごとが、本当に僕たちを幸せにしているのか、
見つめ直すべき局面に立っているのかもしれません。

Comment

タイトルとURLをコピーしました