ここ数年、日本の、とりわけインターネット空間では反フェミニズム(アンチフェミニズム)が取り上げられることが多くなっていると感じています。
発達障害当事者として生きる中で、
僕はしばしば「空気」や「暗黙の前提」によって、
言葉を置く場所そのものを失ってきました。
その立場から、この現象について考えてみたいと思います。
僕のスタンス
最初に、反フェミニズムについて僕の立場を述べておきたいと思います。
僕は、反フェミニズムには強い関心を持っています。
現在の日本における反フェミニズムの状況は、いくつかの論者によって、ずっと以前から存在していた社会的疲労が可視化されている状況だと僕は見ています。
その論者の中でも、現時点で比較的高い知名度と影響力を持っている人物として、小山(狂)こと、社会評論家である小山晃弘氏の名前が挙げられるでしょう。
少なくとも彼の言説は、主張の輪郭が明確で、一定の内的整合性を備えており、単なる感情的反発を超えた水準に達しているように、僕には見えます。
ですが僕は、反フェミニズムを支持も否定もしない立場です。
それは僕が、書き手として、いかなる人々の代弁者にも代表者にもならない、という姿勢で言葉を置いているからです。
僕は発達障害当事者ですが、その当事者性をどのように言葉にするかについては、状況や文脈に応じて考え続けたいと思っています。
ですので、この記事の内容は、
反フェミニズムとフェミニズムのどちらに正義があるのか?
といったものにはなりません。
日本社会の中において、それら両者が作り出している構造について、僕がどう見ているかを言語化した内容になります。
「反」「アンチ」が規定する構造
僕が反フェミニズムに注目しているのは、その主張の是非ではなく「反転されたイデオロギーは反転元の思想が社会において十分に内在化されていないケースでも成立しうるのか」という問いにあります。
つまり僕が反フェミニズムに注目しているのは、それが僕にとって特別だからではなく「アンチ〇〇」という形式そのものが投げかける問いが、どの思想においてもほぼ共通して見られるものだからです。
どういうことかというと、
「反」「アンチ」という言葉が示すように、反フェミニズムはフェミニズムに対してアンチの立場をとります。
そして、反フェミニズムは、これまでフェミニストが長きにわたって構想し、社会に適用して練り上げ構築してきた理論を、いわば「鏡写し」にして、その思想の根幹と置いているように、僕には見えます。そうすることで、その鏡に写った「本体」が抱える矛盾や、その本体が逆に抑圧される者を生んできた事実を、人々に突きつけ、注目させるという方針を取っているようだ、ということです。
この方針自体は、現時点においては有効な手段だと思えます。日本においては「弱者男性」という言葉が共感のもとに受け止められ始めている背景もある。そしてメッセージに明快さもある。ですので短期的には有効な手段だと言えるのではないでしょうか。
ですが、
「アンチ〇〇」という立場は、定義上、
〇〇が何であるか、
〇〇がどのように振る舞っているか、
〇〇がどこで失敗しているか、
など、〇〇に依拠して自己規定されることから自由になることができない立場です。
つまりアンチとは、常に「後置的」な存在であり、自律的な原理を持ちにくい立場だといえます。これは是非の問題ではなく、形式そのものが持つ構造的な特徴です。
では、反フェミニズムにとって鏡写しの本体、ないしは敵であるフェミニズムは、日本の社会において、全支配的な、広くコンセンサスを得られた強固なイデオロギーだと言えるのでしょうか。
僕は、そうではないのではないか、と思うのです。
政治家も企業家も文化人も、フェミニズムに関しては、いかに当たり障りのないことを言ってその場を切り抜けるか、そのスキルに長けた人ばかりが目につくような気がします。それに、日本においては男女を問わず、フェミニズム・フェミニストと聞けば「あ、めんどくさい系か。近寄らないでおこう」というスタンスを取る人は、その考えを言葉にするのか、そもそも内面で言語化できているかどうかは別として、相当数に上るのが現実ではないかと感じられるのです。
この背景には、フェミニズムに限らず日本ではイデオロギーに言及することの社会的なコストが高いことがあげられると思います。
ここで正直に言うと、僕にとっても、こうしたテーマについて言葉にすることは、コストの高い行いであると言えます。それでもなぜ今回、僕にこの記事を書かせたものが何だったのかについては、また後で述べたいと思います。
話を続けます。前述したような状況においては、反フェミニズムは、人々の回避的な態度そのものを反転させて受け取ってしまう構造を持っています。
つまり、フェミニズムに対して向けられてきた、
「面倒だから関わりたくない」
「視界に入れたくない」
という動機が、反フェミニズムに対しても、ほぼ同じ形で再生産されてしまうのです。
非常事態があらわにするジェンダーと排除
フェミニズムは日本において盤石な思想なのか。
このことについて考えるために、もう一つ言えば、日本は災害大国であり、次の巨大地震がそう遠くない未来に起こることが、ほぼ確実視されている状況にあります。
先の大震災であり「未曾有の危機」と言語化された東日本大震災において、フェミニズムはその理念を十分に発揮し、人々の幸福実現のために機能したといえるのでしょうか。
緊急事態においては「そうあるべきだ」という、暗黙の期待として、
危険な外活動を担うべきは男性、
交渉事を担うべきは男性、
力仕事を担うのは男性、
炊き出しに従事すべきは女性、
ケア労働に専念すべきは女性、
対価を求めない労働を担うべきは女性。
こうしたことが暗黙の期待として再生産されやすい状況が展開されます。この状況下では、
男性なんだけど危険作業に適さない個性、
女性なんだけどケア労働に適さない個性、
そうした例外的な個性の差は、ないものとして扱われ、同調圧力の前に簡単に抑圧され、排除される構造ができあがってしまう。それが、先の大震災で展開された光景ではないでしょうか。
さしずめ、発達障害である僕などは、このような状況においては「使えない奴」とラベリングされるでしょう。そしてそれは、能力の有無というよりも、「期待された役割から外れている」という理由によって起こるラベリングです。これは「お前は男の風体をしてるくせに、なぜ皆と同じように機能できないのか、貢献できないのか」という、未文化な感情に基づく判断によって起こる排除です。
ここで問題になっているのは、誰が正しいかではなく、
どのような基準で「場にふさわしくない存在」が切り分けられるか、という点です。
この排除の構造は、フェミニズム、そして反フェミニズムが主張する排除の構造と、作動の仕方という点で、きわめて近いものです。
そして、社会がそこまで切り詰められ、余裕がなくなり、文明が後退した状況においては「貢献していない者に与える資源はない」という極めてプリミティブな着地点までは、ほんの数メートルでしょう。
話を本筋に戻します。
もちろん、非常事態においてフェミニズムが何の意味もなかった、などと言いたいわけではありません。過去の大震災においては、避難所での性暴力・セクハラ、妊産婦や生理用品の軽視、DVの増加などの問題が起こっていたことは広く知られています。これらは自然災害ではなく、潜在的に存在していた社会構造の不備の表出だといえると思います。
フェミニズムは、こうした不備を僕たちが問題として認識して共有し、言語化して改善していくために重要な役割を今後も担っていくのだと思います。
ですが、水、食料、即断即決、指揮命令、役割分担。
非常事態においては、こうしたことが、まず真っ先に求められてしまうようになる。
こうした現実を前に、イデオロギーはその理念を完全に具象化した機能を発揮できたとは言い難いのではないでしょうか。
「今は非常時だから仕方ない」という免責倫理のもと、男女が生物として持っている差、そして日本人が社会的内在化している男女観、そうしたものがむき出しになるのが、非常事態なのではないでしょうか。もちろん、こうした状況は、人を幸福にしない、という観点からは「間違った状況だ」と僕は思います。
なぜなら、
「今は非常時だから我慢しろ」
「理屈はどうでもいい。現実を見ろ」
こうした倫理のもと、不平等、不公平がまかり通る状況は、
「女が職を持つべきではない」「男のくせに職につかず家事に勤しむなど許さない」と同じベクトルにあるといえるのではないでしょうか。
堅牢ではない建築物を本体に据える危うさ
このように見ていくと、日本におけるフェミニズムそのものが、決して堅牢とは言えない建築物のように思えてくるのは、僕だけでしょうか。ここで言う「堅牢さ」とは、正しさや価値の高さではなく、非常事態や社会的圧力に対して、どれだけ理念を維持できるか、という意味です。
誤解していただきたくないのですが、ここで僕が書いているのは、フェミニズムが間違っている、という評価ではありません。それが、社会的実践として、どのような条件で機能し、どのような場面で揺らいだか、という観測にすぎません。
反フェミニズムが、そのような、実は堅牢ではないものを本体として据え、思想を展開していくことは、はたして得策と言えるのだろうか? という疑問を感じています。
すでに述べたように、大災害や戦争が起これば、現在のフェミニズムが置かれた立場は一気に変わる可能性もあります。そうなれば、フェミニズムを鏡写しにすることで立脚している反フェミニズムの意義、立ち位置も劇的に変わり「はしごを外された状態」や「対象不在」といった状態になってしまう可能性もあるのではないでしょうか。
日本社会には、価値や立場を「状況への適応」として切り替える傾向が、比較的強く見られます。これを言葉を選ばずに言うなら「節操がない」というところでしょうか。
あるときまで強く信じていたことを「みんながやっているから」と簡単に鞍替えし、それまでとは真逆の立場に容易に転ぶ。それは近代史だけを見ても明らかです。
なぜ、この記事を書いたのか
最後に、今回、この記事を僕に書かせた動機とは何だったのか、について述べます。
日本では未だに「男が泣き言を言うべきではない」という価値観が支配的です。
「いや、そんなことはない。男性だって苦しみや哀しみを言葉にすることは許されているではないか」という人もいるかも知れませんが、それはあくまで表層の話だと僕は思うのです。
僕たちが生きている社会においては、これは少々過激な比喩ですが、
未だに
「男は泣き言を言わず黙って自決せよ」
「女の泣き言は聞くが男の泣き言は聞かない」
という黙示的な規範のもと、多くの社会システムがデザインされ、文化が継承されてきた。
そして、それは現在でも変わっていないと、僕は思っています。
こうした規範が根底にあるために、日本の社会の中には、男性の苦悩に耳を傾け包摂する空間がほぼ存在しない。そしてこの規範のもとに現実が展開されている。日本における男性の自殺率は女性のそれの2倍から3倍と言われます。男性が救いを求めることすら困難になり、「黙って死ぬ」方向へと追い込まれる構造が、そこにはあります。これは多くの反フェミニストの論者が主張する、僕たちの社会が抱える欠陥です。
社会の不備により苦しみを抱える人々の声に耳を傾ける場がなく、
自死という選択肢しか残されていない社会を、
正しい社会だと呼ぶことはできません。
そして、
「弱者は死すべし」という倫理が支配する社会を肯定することは、
人間がここまで積み重ねてきた文明そのものを、
自ら手放すことに等しいのだと思います。
つまり、
「男はこうあるべき」
「女はこうあるべき」
を外部から定めようとする規範と、僕たちがどう向き合っていくのかという課題は、誰にとっても他人事ではない。
面倒だからといって、見ないふりや、存在しないことにできるようなものではない。
直視しなければ、この先も多くの人が死ぬ。
そのような、人の命の問題として捉えるべきことなのだと思います。
おわりに
ここまで言葉にしてきて、僕は一つのことを考えずにはいられませんでした。
もしかすると、フェミニズムと反フェミニズムは、
互いに対立しているように見えながら、実は同じ地点を目指しているのではないか、ということです。
それは、
社会の中で苦しみを抱えながらも、
声を上げることすら許されず、
役割や属性によって沈黙、忍従、そして死を強いられてきた人々が、
もう二度と見捨てられない社会をつくる、という地点です。
フェミニズムは、長い時間をかけて「女性である」という理由だけで負わされてきた不利益や沈黙を可視化し、言葉にしてきた。
一方で、反フェミニズムの言説があぶり出したもの、それは、
「男性である」という理由だけで、弱さや苦悩を語ることを許されず、黙って消えていくことを強いられてきた人々の存在です。
立場も言葉も、用いる方法も異なります。
互いに強い反発を抱くのも、無理はないのかもしれません。
それでも、
「役割から外れた者が切り捨てられていく社会はおかしい」という直感だけは、両者に共通して流れているのではないでしょうか。
もしそうだとするなら、僕たちが本当に向き合うべきなのは、
フェミニズムか、反フェミニズムか、
そのどちらが正しいか、という問いではないのかもしれない。
なぜ、これほど多くの人が、苦しみを抱えたまま黙ってしまう社会が、
今もなお、維持されているのか、
という問いなのだと思います。
それでもなお、両者が相容れないままだとしたら、
それは、いったいなぜなのでしょうか。


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