今日は「使える筋肉」と「使えない筋肉」という、筋トレや、体型としてのマッチョを語るうえで日本ではしばしば議論の的となる「使えない筋肉」論争について言葉にしたいと思います。
この記事が目指すこと
まず、この記事の内容をあらかじめ言葉にしておきたいと思います。
僕は、この記事を通して、
「使えない筋肉なんてないんだ!」
とか、
「筋トレによってつけた筋肉は使えない筋肉だって? そんなことはない!」
とか、そういった主張をしたいわけではありません。
僕はただ、日本における「使えない筋肉」論争という現象が、どのような背景によって生じているのか、その構造について僕の考えていることを言葉にしたいと思ったのです。加えて「日本における筋トレと筋肉にまつわる出来事を水も漏らさぬ精度でまとめ上げた筋肉クロニクル」といった資料を作ろうという意図も僕にはありません。
ですので、この記事では僕なりのやり方で、手短ではありますが、日本の中世史や近代史も引きつつ「使えない筋肉論争」の背景にあるものについて言葉にしていきたいと思います。
僕が考える「使えない/使える筋肉」
まず僕が、これまで筋トレにどのように取り組んできたのか、
どのような身体を獲得することを目的としているのか、
簡単ではありますが、述べておきたいと思います。
僕は30年以上にわたって筋トレを続けてきました。公式サイトの画像を見ていただければわかると思うのですが、僕のルックはおそらく「ソフトマッチョ」と形容される範囲に含まれるのではないかと思っています。
これは、僕が「ソフトマッチョ」と呼ばれる身体を目的地として目指した結果として実現されているわけではなく、実生活を生きるうえでの様々な要件や制約、人生観などを反映した、選択と妥協の結果として実現された身体といえます。
どういうことかというと、僕は冗談抜きで120歳まで生きたいと思っていますし、筋トレを生涯にわたって続けたいと考えています。こうした人生観のもと自己実現するために僕の筋トレや生活習慣は組まれています。
次に、ここでは僕が「使える/使えない筋肉」についてどう考えているか、ということを示しておきます。僕の考えは、非常にありきたりであり、かつ保守的とも言えるものです。
ボディメイクの筋肉は、美を追うための筋肉です。
その「美」を決めるのは、社会の空気でもあり、競技団体でもあり、そして本人の好みでもある。
一方で、スポーツや武術、または「非常事態のときに女を守れるのか?」などといった文脈の背景にある、いわゆるストリートファイトの筋肉は、それらにおいて勝つための筋肉です。
同じ「筋肉」でも、目指しているものが最初から違います。
だから「使える/使えない」と、一刀両断できるものでは、そもそもない。
僕の考えは、このようなものです。
ですので、この記事では、それでは一体なぜ日本で「使えない筋肉論争」なる現象が起こるのか、について言葉にしていくことになります。
日本ではマッチョは敬遠され、笑われてきた
まず「日本におけるマッチョの現代史」の縮図とも言うべき歴史の一ページについて言葉にしていきます。
1975年生まれの僕が見てきた日本の「マッチョ像」それは、社会の中で常に敬遠され、ときに笑われてきたというのが僕の印象です。ボディビルダーに代表される「過剰な筋肉」つまり「マッチョ」は日本では文化の中心から距離を置かれる風潮が長く続きました。
「マッチョを敬遠する」――その一形態として現れた現象として、とりわけメディアにおいて、マッチョを「嘲笑する」期間は長く続いたのです。
テレビ番組で取り上げられるマッチョといえば、基本的に二つのパターンです。一つ目は、マッチョな肉体を「笑い」に転化することに成功した、ごく一部のお笑い芸人をはじめとしたタレント。二つ目はいわゆる「奇人変人」枠です。
奇人変人枠として取り上げられるマッチョの典型的な描かれ方といえば、
「茹でただけのスパゲッティをボウルに山盛りにしてほおばる」、
「大きなタッパーに詰め込まれた大量の茹でた鶏の胸肉を咀嚼しながら『これが筋肉に最高なんです』などと言う」。
ちなみに、こうしたシーンのあとには、他の出演者の「全く理解できない」といった驚きの表情が差し込まれるのが常です。他には、縁日などで見られる「鬼の的あて」のようなゲームの的として、身体を赤く塗られた半裸のマッチョが他の出演者からボールをぶつけられる。
このような、笑われるべき存在、つまりは道化として、または、一般人の感覚からは理解も共感もできない「理解不能な変人」として、日本のマッチョはメディアで扱われてきたという事実があります。
たとえ、彼ら彼女らがカメラの前で何かを語ったとしても、仮にそれらが哲学的な深さや豊かな精神性を備えた言葉だったとしても、それらは編集段階ですべてカットされてきたのだろう、と想像させる演出が、テレビにおいては多用されてきたように思います。
これは僕と年齢の近い筋トレ愛好者、ないしはボディビル愛好者が見てきた風景と大きな乖離はないのではないか、と思います。
大きな変化は起こっていない――言わねば気が済まない「申し添え」
雑誌「ターザン」などの登場によって、日本における、いくばくかの「マッチョの社会的地位の向上」は実現されたのかもしれませんが、根本的な変化は起こらなかった、と思っています。
さらに、時代の流れとともに健康志向が高まり、著名人の中から、とりわけ経済的成功を収めた人々の中から「ジム通いを続けている」と公言する人々も現れてきました。自己管理能力がビジネスにおける成功につながる、という思想は、現代の日本でもかなり浸透してきていると感じます。
しかし同時に、こうした場面で頻繁に見受けられる、一つの現象があります。
その現象とは、
「自分はジムに通っているけど、別にマッチョになりたいわけじゃないから」、
と、自分がやっていることについて、ある種の補足ないしは「申し添え」を、その都度、言葉にしなければならない。そんなプレッシャーに人々がさらされる現象のことです。
これは無理からぬことです。なぜなら日本においてマッチョは忌避され、笑われてきた存在なのだから。
この「但し書きを言わねば気が済まない気持ちにさせられる」構造について、わかりやすい比喩をつかって言語化することができます。
たとえば「あそこって、スピリチュアル系なのでは?」と噂されている、とある団体がヨガ教室を開催しているとする。そしてあなたは、その団体の理念や思想には全く興味はないが、家から近いから、または単純にヨガに興味があるから、といった理由によってそのヨガ教室に通っているとする。次にあなたは誰かに「私、実はあそこのヨガに通ってるんだ」と伝えなければならない場面に遭遇したとする。あなたはおそらく「いや、私はただ、ヨガに興味があるだけだからね」と「申し添えたくなる」はずです。
この例え話が示している構造は「私はジムに通っているけど、別にマッチョになりたいわけじゃないからね」と、言わねば気が済まなくさせてしまう構造と似ています。
「筋トレブーム」とは何だったのか
次に、21世紀の初頭に起こったいわゆる「筋トレブーム」について、言葉にしていきます。僕は個人的に、この現象についても「ブーム」という言葉が持つイメージ――急激さ、一過性、つまりは、にわか、などが表しているように、日本におけるマッチョのあり方を根本から変えるような大きな変化は起こらなかった、と見ています。
この「筋トレブーム」の背景を見ていくと、このブームは以下のような世界的な潮流のもとで発生したと僕は考えます。
- 新自由主義と自己責任論の加熱
- SNSの発展とルッキズムの不可逆的進行
- 労働生産性の重視
つまり「筋トレブーム」で起こったことの本質の一面として「筋トレを習慣として継続する」という選択の理由を、個人が社会に対して説明するための方便が増えたこと、として挙げることができるのではないでしょうか。
ここで筋トレは「自分は変人ではない」と示すための、社会的に通用する言い訳を手に入れた。
「ビジネスで成功したければ、筋トレせよ」、
「成功者は皆、筋トレを通して自己管理能力を磨いている」、
「世界的企業CEOの〇〇は筋トレをしている」
新自由主義によって主導された、こうした「勝つため」の思想は、日本人に「筋トレを続ける理由」を問い続ける社会に対しての明快すぎる「回答」を与えたのではないでしょうか。「なぜあなたは筋トレをするのか」という社会からの問いに対して「そりゃあ、金がほしいからさ」という明確な回答が、ここにはある。
同様に、SNSの発展によるルッキズムの不可逆的進行が日本の筋トレ文化にもたらしたもの、これもまた同様の構造を持つといえます。ここでも「なぜあなたは筋トレをするのか?」という社会からの問いに対して「目立ちたいからだ」「フォロワー数を増やしたいからだ」といった明確な回答があります。
別の言い方をすれば「筋トレブーム」の背後で起こっていたこととは、
「筋トレをしてもいい。ただし目的は健康・美容・生産性向上に限る」という条件付きで「筋トレ文化」が、日本社会によって再定義されたことではないか、ということです。
重要な点として、これは決して「ようやく日本のマッチョが市民権を得た」といったような、単純化できるような状況ではないということです。
つまり、あくまで筋トレという行為が、
ビジネスで勝つための身体チューニングツール、
ルッキズムが支配する社会で多くの注目を集めるためのハウツー、
健康寿命を伸ばすための健康志向。
このような強力な推進力によって牽引される無数のことがらたち、その傍系に位置する存在の一つとして、日本におけるマッチョの社会的イメージも引き上げられたかのように、今のところは見えている、という状況なのではないかと僕は思っています。
こうした背景から「使えない筋肉論争」の中心は筋肉の性能ではなく「その筋肉が社会に説明可能かどうか」なのではないか、と思えてきます。
解像度は高くなったが
もちろん、日本のマッチョを取り巻く状況に、まったく変化がなかったというわけではないでしょう。社会がマッチョを見る際の解像度が、以前よりも高くなった、ということは言えると思います。
具体的には、従来は「マッチョ」と一括りにされてきた「過剰なマッチョ」は「ゴリマッチョ」になり「適度なマッチョ」、つまり比較的好ましいマッチョ、説明可能なマッチョは「細マッチョ」や「ソフトマッチョ」などとラベリングされるようになった。
ですが、この新たなラベリングの下でもなお「オレ、別にゴリマッチョなんか目指してないから」と、事あるごとに言い続けなければならない気持ちにさせられてしまう点は変わっていません。「オレは別に、筋トレなんかに熱くなってるわけじゃないから」と申し添えなければ「奇人変人枠」に「落とされてしまう」という構造は変わっておらず、この構造が生みだす圧力から、日本人は自由になったわけではないのです。
「ゴリマッチョなんか目指してないから」を別の言葉にすれば、
「私は社会の規範や空気から逸脱するような人じゃないから」、
「私は周りが見えなくなってる人じゃないから」
と言語化できるのではないでしょうか。
ここから「日本人は、社会から見て理解不能な、逸脱した存在になることを何よりも恐れているのではないか」という仮説が見えてくるような気がします。


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