「使えない筋肉」論争――なぜ日本では、筋肉に理由が求められるのか

舞台空間におけるマッチョ

ここで話の焦点を、より一般的な視点に、少しずらします。

たとえば、刑事ドラマを例に具体的に言葉にしてみましょう。とある犯罪現場で何人もの制服警官や私服刑事たちが忙しく動き回っている。その刑事の中に一人、ゴリマッチョがいるとする。

これが海外のドラマであれば、僕たち日本人も「あ、ゴツい(いかつい)人がいるな。まあ海外だからね」と、何の疑問も抱くことなくそのシーンを受け入れることができる。

でも、これが日本を舞台にしたドラマだと、話はまったく変わってきます。

「なんで刑事なのにゴリマッチョなんだ?」、
「あのゴリマッチョ刑事は、一体何なんだ?」、
「ゴリマッチョ刑事はどんな過去を持っているんだ?」、
「あのゴリマッチョは、何かの伏線なのか?」。

などと、僕たちはゴリマッチョ刑事が気になって仕方がなくなってしまい、ドラマの内容どころではなくなる。そしてドラマを最終話まで見終えても「なぜあの場にゴリマッチョがいたのか」について説明がなく、つまり視聴者からすれば、伏線回収されてない、と感じられた場合、そのドラマの評価はおそらく微妙なものになるでしょう。演出家は「意味もなくマッチョを出すな」と、上司や世間から叱責を受けるかもしれません。

この状況は、日本では、舞台空間にゴリマッチョを存在させたことについて「説明責任」が生じてしまうことから起こります。さらに、この状況は、俳優が役作りのために身体を一時的に鍛えてゴリマッチョになることは社会から理解と承認を得られても、常にゴリマッチョの俳優の場合は、仕事の幅が狭まる、という現象を生み出します。

これは刑事ドラマに限ったことではなく、恋愛リアリティーショーでも同じことです。参加者の中に一人のゴリマッチョが加わったならば、他の参加者や視聴者は彼に、ゴリマッチョであることの説明を求めるでしょう。そのゴリマッチョの回答が「ラグビーやってます」や「柔道部でした」ならば、その回答は百点満点であり、社会から理解と承認を得られる。

しかしそのゴリマッチョが「筋肉をつけることそのものが楽しいんです」とか「この身体を美しいと思うからです」などと答えたなら、そのゴリマッチョは「理解不能」というラベルを貼られることになります。視聴者も、また制作サイドも「逸脱した者」を前提としてそのゴリマッチョを解釈して消費していく構造が完成するはずです。つまり、彼には毎回「ちょっと変わり者の彼」といった前置きのナレーションが付けられるようことになることでしょう。

物語における西洋と日本のマッチョ観の違い

また、西洋の物語には、筋骨隆々のマッチョ体型を持ち、無口で不器用で、どこか無愛想に見える男が、しばしば登場します。でも彼は日本のネットスラングである「脳筋」とラベルを貼られるようなタイプのキャラクターとしては描かれない。むしろ逆で、口数が少ない分、内側ではずっと何かを考え続けている。正義、罪、信仰、責任、自身の暴力性、そうした重いものを、筋肉の奥に秘めたまま生きている。古代神話の英雄像まで遡っても、この形は昔から何度も反復されてきたのだと思います。

知性を内包した肉体を使って描かれる人物像は英雄とは限りません。
フェデリコ・フェリーニ監督の映画「道」の登場人物であるザンパノという男は、屈強な肉体の持ち主です。しかし彼はステレオタイプの「脳筋」ではなく、その逞しい肉体の内に、嫉妬深さ、臆病さ、狡猾さといった「人間らしさ」と表される知性を抱えた存在として描かれています。

いっぽう日本の物語で、こうした知性を持つ人物を思い浮かべようとしても、とたんに難しくなります。単に僕が知らないだけなのかもしれない。でも「いくらでもいる」と言えるほど見当たらない。

たとえば「無法松の一生」をあげると、彼は、人物造形において優しいやり方ではあるものの、その知性は日本的文化の中では剥奪されてしまう。無法松がこう描かれたのは、彼が特別に単純な人物だったからではありません。
むしろ、屈強な肉体を持つ人物を物語に配置するとき、日本の物語はしばしば、知性や内省を別の場所へ退避させてきた。無法松は、その処理の仕方を最もわかりやすく示す例のひとつだと思うのです。

「筋肉」や「力」が前景化した瞬間、その人物はどこかで「考えない役」として配置されてしまう。屈強な肉体と深い思索、この二つが両立できず、いわば、物語の中で扱いにくい、そんな気がしています。

僕は、次のように、この西洋と日本のマッチョ観の違いを理解しています。

西洋では、精神が肉体に現れると考える。肉体は精神の器であり、結果であり、痕跡でもある。だから、強い身体は「思考のなさ」とはならない。屈強な肉体の奥に、思考や葛藤が秘められていることは矛盾とはされない。

しかし日本では、精神と肉体は切り離されやすい。人格や知性は肉体とは別の場所にあるものとして語られやすい。だから、肉体が強調されると、内面は単純化されてしまう。筋肉は精神の深さを支える器ではなく、むしろ精神や「技」「気」といった要素を損なうものとして扱われがちです。

逸脱することへの恐怖

ここからは、話の焦点を本筋に戻していきます。

既に僕は「日本人は、社会から見て理解不能な、逸脱した存在になることを何よりも恐れているのではないか」という仮説をあげています。

ではなぜ、僕たちはそこまで「逸脱すること」を恐れるのか?

この記事は英語版も公開するので、日本の文化に馴染みのない方向けに、ここで日本社会の背景を説明しておく必要があると思います。

端的に言えば、日本では、
「逸脱は、弱さ」
として認知されやすいのです。

日本のこのような文化性を説明する文脈は無数に存在しますが、最もよく目にするものとしては、
「近代以前の日本は9割が農民だった。そこでは何よりも協調性が重んじられ、逸脱したものは排除された」
という論でしょうか。「出る杭は打たれる」の一言に集約できる論立てです。

日本の村落共同体で機能してきた「出る杭は打たれる」のメカニズムについて、僕のイメージを用いて少し丁寧に言葉にすると、次のようになります。

村落共同体においては、共同が必須となる農耕作業に適さない「逸脱者」を出さないことが重要な課題であることはいうまでもありません。この逸脱者の発見と排除の仕組みは「共同体の仲間に決して迷惑をかけるな」という心理的圧力を受けた構成員一人ひとりの心理のチェーン(連鎖)によって構成されています。

ある村から共同作業に適さない「逸脱者」が出ると、次のようなプロセスが駆動します。

「いつから逸脱者の存在に気づいていた?」、
「逸脱者が出たことを真っ先に検知する責任を負っていたのは誰だ?」

このプロセスによる逸脱者への対処は、支配者である武士を頂点とする階級構造において、可能な限り下の階層において行われることが望ましく、エスカレーションが発生することは望ましくない。よってこのプロセスは速やかにかつ効果的に機能し、逸脱者はヒエラルキーの下層で対処されることになります。

このプロセスは現代の日本の組織にも、形を変えて受け継がれていると思います。それにいわゆる「田舎」に住めば、もっとプリミティブなわかりやすい形で、このプロセスが残っていることを目にすることもできるでしょう。

都会から田舎に移り住んだ人が衝撃を受けることとして、しばしば語られること――
「近所の人が勝手に家に入ってくる」
「どこのスーパーで、いつ、何を買ったか、すべて見られていた」
「狭い町のすべての人が、すべての人について、あまりに多くのことを知っている」

こうしたことも、逸脱者を早期に検出して対処するプロセスの名残である、または、そのプロセスは、いまだ現在進行系でその責務を担っていることの現れなのかもしれません。

近代化を経て、日本人の生き方は近代以前とは大きく変わりました。現代における農業従事者の割合は全人口の3パーセント程度にすぎない、という説もあります。しかし僕は、現代の日本のマッチョは、次のような問いを社会という共同体から、あるいは遺伝子に刻まれた痕跡や歴史の残像から、投げかけられているのではないか、と思うことがあります。

「お前、そんな凄い筋肉つけてっけど、それが野良仕事の役に立つのか?」
「迷惑だけはかけんなよ」

様々な背景・理由から、自身が逸脱した存在となることを、多くの日本人が恐れる。

注目を集めることが欲求充足の手段として正当化されるSNS空間においても、この傾向は変わらない。多くの日本人がSNS上で求めるポジションは「平均より、ちょっと上」なのです。それは、逸脱しない範囲で目立つことです。決して「平均より上」でもなければ「平均よりも下」でもないということです。

こうした、逸脱を極度に恐れる人が多数派を占めるという文化的背景は、海外の人々にとっては、もしかすると理解が難しいことなのかもしれません。

匿名文化と身体性の欠如

日本人のSNS空間と海外のそれを比較した際に、目を引くのは日本の「匿名文化」です。

「なぜ日本人は仮面を被ってYouTuberをやっているんだ?」、
「なんで自分の顔写真を使わないでアニメなどのアバターにしている人ばかりなんだ?」

こうした疑問は、日本のSNS文化に初めて触れた海外の人々が、しばしば口にするものです。

この問いにはさまざまな答え方が可能ですが、この記事の文脈に沿って答えるならば、
「匿名とは、日本人にとって『逸脱する自由』を与えるものなのだ」と言えます。

ここで言う「自由」とは、好き勝手に振る舞えるという意味に限定されません。それはむしろ、逸脱した結果として引き起こされる社会的な評価や回収の回路から、一時的に自己を切り離す自由だと言えます。

日本社会において、身体は単なる肉体としての意味に留まらない。
顔、髪型、年齢、性別、体格――それらは、その人がどの共同体に属し、どの程度の説明責任を追う存在なのかを示す、極めて強力なシグナルとして機能します。具体例を挙げると、僕のヘアスタイルは坊主頭ですが、日本文化においては、坊主頭が事実上のタブーとして機能している領域が存在します。具体的には金融機関、営業職、その他、保守的な顧客層を相手にする業務などが該当します。

「なぜ日本人はタトゥーに対して悪いイメージを持っている人が多いんだ?」
この疑問もまた、海外の人々がしばしば抱く疑問です。この問いに対しても「日本ではタトゥーが極めて強力な身体的・文化的シグナルとして機能しているからだ」と答えることができます。

インターネット空間において匿名になるという行為は、身体的シグナルを一度、無効化する試みでもあります。名前を消し、顔を隠し、年齢や性別を曖昧にすることで、日本人はようやく「逸脱した言葉」や「逸脱した関心」を、ある程度の持続性を持って表現できるようになる。

僕は、日本人は匿名になることで、つまり身体性を一時的にせよ放棄することで、はじめて逸脱できるのではないか、と考えています。

そこで、この記事の主題である「筋肉」に話が戻ってきます。

筋肉は、匿名になれない身体です。
アバターを選ぶことも、属性をぼかすこともできない。
筋肉は、常に身体とともに現れ、即座に意味づけられ、説明を要求される。

だからこそ、日本において筋肉は、
「なぜその身体なのだ?」
「その筋肉は何の役に立つのか?」
といった問いから逃れることができなくなる。

日本社会における筋肉への問いかけは、非常に迅速で、かつ強力です。
たとえば「私、別に長生きしたいなんて思ってないから」などと公言し、飲酒や喫煙も肯定し、そうした、ある種の放蕩的・刹那的なスタンスをとってきた著名人がいるとする。その人物が、何か思うところがあったのか、唐突にジムに通い、体を鍛え始めたとする。筋肉がつき身体が変わってくる。

もちろん、それ自体は悪いこととして受け止められるわけではない。しかし世間からは「お前が筋トレ始めたのかよ(笑)」などと「いじられる」、つまりは半ば嘲笑的に消費される。これは日本のメディア空間でしばしば見られる光景です。

そして、その後の典型的な顛末は、二つに一つです。
その人は身体を隠すようになるか、または筋トレそのものをやめてしまう。
なぜそうなるのか。
それは、それまでその人物が自身の肉体について課されてきた説明責任と、変化した肉体に新たに課される説明責任との間に乖離・矛盾が生じるからではないでしょうか。

日本の文化において、こうした「乖離」や「矛盾」は、しばしば「逸脱の兆候」、すなわち不穏さや、そこから生じる不安として、見る者から読み取られます。

匿名文化がここまで発達した社会で、なお匿名になれない身体を生きることの意味。
そこに、日本の「使えない筋肉論争」が生まれる土壌があるのではないか――僕は、そんなふうに考えています。

マッチョはナルシストなのか?

日本においてはこれまで、マッチョとナルシシズムを強く結びつけて語られる場面が少なくありませんでした。
「筋トレにハマっている男は皆、ナルシストだ」
「ナルシストは自己中心的で他人の痛みに無頓着だ」

このような、マッチョとナルシシズムを結びつけ、その人格を否定するかのような言説は、昔から日本においては、しばしば見られるものです。

では、マッチョは本当にナルシストなのでしょうか。

この問いへの答えは、
それは間違いでもあるし、
正しくもある。

というのが、僕の考えです。

ここから、もう少し丁寧に、マッチョとナルシシズムについて言葉にしていきます。

現代の日本では、筋トレを継続的に行っている人のことを「トレーニー」と呼ぶのが一般的です。

トレーニーという言葉は、筋トレを続けてきた年数(キャリア)や、その人が現在どれほど凄い身体をしているかに関わらず使うことができます。

ですので、トレーニーの中に含まれる人々とは、
ボディビルやフィジークなどの大会に競技者として参加し、明確な目的のもと筋トレを継続している者。あるいは競技者ではないものの、自身の肉体の理想を追求して筋トレを続けている者、などが該当します。理想を追求するなどというと何だか取っつきづらい感じがしますが、これは、なにも高尚で難解なものとは限らず「オレは腕が細いのがコンプレックスだから腕を太くしたい」という動機も立派で、かつ尊い、理想追求の一つのかたちです。

さて、筋トレを行うことで身体に変化を起こさんとする試みだけに限らず、受験勉強、仕事など、あらゆる継続的な試みに欠かせない要素があります。それは「進捗を確認すること」です。進捗を確認できなければ、自分が続けていることがはたして正しいのか、間違っているのかがわからず、その試みを継続するためのモチベーションを維持し続けることは難しくなります。

トレーニーの進捗確認とは、多くの場合、数字ではなく「見た目」です。
もちろん、胸囲が何センチ増えたとか、ウエストが何センチ細くなったとか、そうした数字にこだわる人もいます。
ですが、どれだけ数字が変わったとて、大事なのは「見た目」です。
ボディメイク競技者の場合であれば、すさまじい努力を重ねて、たとえば昨年から1年かけて胸囲を10センチアップさせて大会に望んだとしても、そのこと自体は驚嘆すべきことであり血のにじむような努力の結果であることは非情に強い共感をもって受け止められることではありますが、しかし大会では「見た目がすべて」なのです。過去と比較した数字をどれだけ向上/低下させることに成功したとて、そのことがボディメイクの世界で評価される事は基本的にありません。

これは競技者だけではありません。腕が細いことがコンプレックスで筋トレを始めた人は、では二の腕周りが5センチアップしたら、それで幸福感を得られ、満足するのでしょうか? おそらくそうではない。最初のきっかけは「鏡に映る自分」を見たときに感じた初期衝動だったはずです。

ですので、「鏡を見る」という行為は、トレーニーにとっては進捗を確認する極めて有効的な手段なのです。もちろん、最近では自身の姿を動画や静止画に収めることで進捗を確認することは容易になりましたので、トレーニーの世界における鏡の存在感は以前よりは下がっているかもしれません。しかし、いまだ民間ジムの大多数において鏡張りの内装が採用されていることには言及しておく必要があるかと思います。これにはトレーニングフォームを確認するためという目的がありますが、加えて会員のモチベーション維持にも一役買っているというのが僕の考えるところです。

ですので、ここまでをまとめると、次のようになります。
トレーニーにとって鏡で自分の身体を確認することは、進捗を確認することであり、それは陸上競技選手などがタイムを測ることで競技者としての進捗を確認することと同じ意味を持つといえる。自主的に、かつ継続的に取り組んでいることについて良好な進捗が得られた際に、思わず笑みがこぼれるというのは自然なことであり、それはナルシシズムだと断言することはできない。

さて、ここまでの説明で十分だと感じる方は、ここで、この章を読むのを止めても差し支えないかもしれません。

ですが、物事を多面的に解釈することを好むタイプの方にとっては、ここまでの説明ではなんとも言えない消化不良感が残るのではないでしょうか。だいいち、この章の冒頭で述べた「マッチョはナルシストだ」は「間違いでもあるし、正しくもある」について、十分に説明できていません。

ここからは、では、なぜ「正しくもある」のかについて言葉にしていきます。

端的に言えば、人間の内心の働きを明確に区分けしたり、可視化することは不可能だということです。

トレーニーにとって鏡を見ることは、日々のトレーニングの進捗を確認することであり、進捗が良好なら、そりゃあ笑みも浮かべるでしょう、ということについては既に述べました。
ですが、その笑みを浮かべたトレーニーの、その笑みの源泉が、はたして進捗が良好なことだけに依っているのか、あるいは「オレって美しい」というナルシシズムが混ざっているのか、それは可視化して証明することは不可能だし、ましてや本人にも明確に分かっているケースは少ないのではないでしょうか。

たとえば、学校で、ある子がテストで90点を取ったとします。
そしてその子は、点数を見ておもわず笑みを浮かべたとする。
そのとき、周りのある子は「あいつ、オレを負かしていい気になって笑ってやがる」と怒りを覚えるかもしれない。
別の子は「あいつ、たった90点くらいで喜んでるのか。100点じゃなきゃ無意味だぜ」などと優越感に浸るのかもしれない。
しかし、当の本人は、親から「90点以上取ったらSwitch買ってあげる」と言われていて、それを喜んだだけなのかもしれない。

このように、ある個人の内心、その個人の表面上から観察できること、それらから周囲の人が受けとる印象は簡単に食い違うものだし、人間の営みにおいては、そうした些細な食い違いをいちいち説明する場面に出くわす機会は稀であり、その証明をするための手段も皆無に等しいのです。

ですので、マッチョとナルシシズムに話を戻すと、
鏡を見て微笑むマッチョは、良好な進捗を確認して喜んでいるのか、あるいはそれはナルシシズムなのか、はたまたその両方なのか、それは、わからない、ということになります。
これが、「マッチョはナルシスト」という前提が「間違いでもあり、正しくもある」と僕が考える理由です。

正直に告白すると、この章は、この記事の中で少々、浮いた存在になっています。
それでも僕にこの章を書かせたもの、それは現代の日本の、特にインターネット空間におけるナルシシズムの位置づけの変化にあります。

近年、SNSを中心に「NPD(自己愛性パーソナリティー障害)被害者サークル」とでもいうべき、個々の規模は大きくはないものの着実な存在感を示している思想があります。そこでは「NPD男性からこんな被害を受けた」「心を踏みにじられた」といった、様々な怨嗟の叫びがポストされています。中には「NPDは犯罪者予備軍」といった、かなり過激な表現すら見かけるようになりました。

それらの表現の中には「それはNPDじゃないんじゃないか」と個人的には感じられるものもちらほら存在します。さておき、もし、この流れが加速するとすれば、日本社会における「ナルシスト男性」という概念は従来の「眉をひそめたくなるような気持ちにさせられることは否めないが、反社会的とまではいえない」といった位置づけから、一気に「社会の敵」へと転じていく――そんな未来像が、ふと脳裏をよぎります。そしてそれは、単なる杞憂として片付けてしまえるほど、根拠のない空想とも言い切れないように思えるのです。

誤解されるような構造があるのならば、それは言葉にしておくほうがいいのではないか。いささかアンバランスにも感じられる本章ですが、このような気持ちから、それでも言葉にしておきたいと思った次第です。

さて、ここまでは、主に現代の空気を見てきました。
ここからは、その空気がどこから来たのかを、過去へ遡って考えてみます。

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