敗戦、見せつけられた圧倒的な肉体
太平洋戦争が終結した1945年当時における日本人男性の平均身長と、英米豪のそれを比べると、おおむね15センチのようです。
この身長差をリアルに想像してみるために僕の身長に当てはめて想像してみたいと思います。僕の身長は178センチなので、15センチをプラスすると193センチとなります。これは僕から見ても、まあ、見上げるような大男です。僕は学生の頃、柔道をやっていた時期があります。自分よりも5センチほど高い、つまり183センチ程度の相手であっても、組み合った刹那に圧倒的な体格差を感じ、技の応酬に入る前の段階で既に、相手からねじ伏せられたような感覚を覚えたことを、今でも生々しく覚えています。
敗戦によってアイデンティティが崩壊した日本人の前に現れた、圧倒的体格差を誇る連合軍兵士たち。その印象を語る当時の日本人の証言は、さまざまな形で記録として残っています。
「まるで相撲取りのように大きかった」、
「同じ人間とは思えないほど肩幅広く脚も長かった」
多くの日本人が、絶望のさなか「こんなに体格差があったんじゃ、そもそも勝てるわけがない」と感じたのではないでしょうか。
絶望と自己喪失の渦中に放り出された日本人は、体格差をひっくり返す優位性を見つけるという方向に自我を守るすべを見出したのではないかという指摘は様々な形で行われてきました。そうして日本人が見つけた、というか再発見したものが「精神性」だったのではないでしょうか。
「身体の小さい小男や少年が大男を倒す」
「肉体の劣位を覆すために『技』を修練して勝つ」
こうした描写は、敗戦後から、漫画を筆頭とした様々な表現形式において数多く用いられていくことになります。こうした描写を支える思想は、次のような、西洋科学とも融合した概念へと発展していくことになります。
「筋トレでつけた筋肉は固くて柔軟性を欠くため使い物にならない」
「日々の鍛錬でついた筋肉は実戦で役立つが、筋トレでつけた筋肉など実戦では何の役にも立たない」
このような思想は、漫画やアニメの歴史を掘り起こせば無数に発見できるし、そしてこの思想は形を変えて現在まで受け継がれていると僕は感じています。
ここで僕が強く感じたことは、これらの思想の根幹にあるのは、単なる「絶望した日本人にとって肉体は否定される必要があり、精神こそに価値を置く必要があった」に留まらないのではないか、ということです。
そこにあるのは「私たちはまだ未完成・未成熟の状態だ。精神性を追求して完成に至ることで再び復活の日が訪れるはずだ」という希望の表出でもあるのではないか。
いわゆる「努力至上主義」という思想も「未完成だから努力し続けて、完成に至らねばならない」という思想から派生しているのではないか、とも思えます。
近世以前――貴族文化、武士、技と肉体
次に、話の焦点をさらに過去へと進めます。現代の日本人の多くが「精神的なものは肉体的なものよりも尊い」という理念を、考えのベースとして持っていると思います。そしてそのルーツは近世以前にまで遡ることができるのではないでしょうか。
公家の文化では、身体性よりも、言葉や和歌、それらを嗜む感性が重視されていたとは、よく言われることです。
同様に、武士の文化においても禅や武家倫理においては、直接的な肉体的強さよりも、「型」「気」「間」などといった、抽象的な概念の方に重きを置かれていた、ということは、これもまたよく言われることでもあり、現代に生きる僕たちにもしっくりくる感覚ではないかと思います。
つまり、これら文化圏においては、早くも近世以前においてすでに、力を誇示することは「程度が低い」「野蛮」「未熟さの現れ」などとして、否定的にとらえられていた、と考えることができると思います。
ただ、近世以前の文化とは、文化が文字として残っている、すなわち文字を使うことができた貴族や武士などの支配階級の文化を現代に生きる僕たちが文字を通して想像しているにすぎず、庶民の文化までカバーしきれていない面があることは留意しておく必要があると思います。
つまり、肉体労働に勤しんでいた庶民が、マッチョな身体や筋肉をどのようにとらえていたのか、については、よくわからない、というところではないか、ということです。
ですが、力に基づく強さを否定する傾向は近世以降についても続きます。たとえば、江戸時代初期に活躍した剣術家で徳川将軍家の兵法指南役だった柳生宗矩は、
「力にて勝たんとするは下の下なり」という言葉を残していますし、さまざまな武芸譚や伝承でも「怪力自慢が一瞬で倒された」や「非力な老人が技で、力を誇る若者を倒した」といったパターンが繰り返し使われています。
中性性
日本における「マッチョ忌避文化」を考えるうえで避けて通れないと思うのが「中性性の希求」ではないかと思っています。
日本では女性が男性の成熟した身体性を忌避、否定する傾向が存在しています。もちろん、そうではない人も多いし、僕自身の観測範囲の話にすぎません。
成熟した身体性とは具体的には「筋肉」「のどぼとけ」「体毛」「浮き出た血管」「短髪」などでしょうか。いわゆる「ハゲ」も「成熟した男性性」に含めるべきなのかどうかは、どのような学問的スコープを使うかによって異なるかと思うのでここでは掘り下げません。ただ、ロシアや南米などでは日本とは異なり、ハゲは成熟した大人の男性の象徴ととらえる向きもありそうです。
ここで挙げたような「成熟した男性性」とは真逆の特徴を備えた、つまり「中性的」と表現される特徴を備えた男性性を希求する女性層、これは一定数、存在してきたし、現在も存在していると僕は思っています。そしてこれは個人的な肌感にすぎませんが、日本のその割合は、海外のそれよりも高いのではないか、とも感じています。物語世界におけるキャラクターの描写などにも、この風潮を読み取ることができるでしょう。
日本の女性に中性性が求められるのと似た現象として、日本の男性における「未完成な少女性イメージの希求」もあります。これは短絡的には現代史における「オタク」を引いてくることで説明されることが多いと思います。ですがこの傾向は、川端康成の時代からすでに強く見られるものでもあり、これには現代史だけでは語ることができない日本人の民族性が背景にあるのかもしれません。
ただ、日本の男女の双方におけるこれらの文化について考察するには、様々な観点からの考察が必要になると思います。
敗戦(すでに述べた通り)
ウーマン・リブの勃興
家庭における父性の消失
このような観点から掘り下げることで、興味深い発見が得られそうな気もします。ですがこれはまた別の機会にしたいと思います。
体育会系 vs 文化系
日本でマッチョが忌避されがちな背景には、次のような、マッチョが負わされているネガティブなイメージが深く関与しているといえます。それは「傲慢」「未熟」「下品」といった言葉で表せます。これらは、すでに述べたように近世以前から日本の文化の一側面において拒否されてきたイメージと重なります。
こうしたネガティブなイメージについて考えるとき、これらをすべて体現してしまっている属性が、現代日本には存在します。それがいわゆる「体育会系文化」が持つ、良くない方のイメージです。
もちろん、体育会系文化にも良い面はある。ですので、次に述べるようなことは、もちろんすべての体育会系の人に当てはまることではありません。
自身の成功体験を押し付ける。
競技に打ち込める環境に生まれた幸運を忘れて全て自分の努力の結果にしてしまう。
個人的にも、体育会系の文化にしか接してきていない人の中には、やはり内的世界の豊かさが、競技の外へ広がりにくい人もいる、と感じることもあります。
体育会系と対極にあるといえるのが文化系ですが、日本のスクールカーストにおいては、体育会系が「リア充」として、階層の頂点付近に位置づけられることが多く、いっぽう文化系はその下層に位置づけられることが少なくない。そしてどの文化圏でも同じことかもしれませんが、ヒエラルキーの下層に位置する人々は上層の人々から「いじり」や「いじめ」の対象とされやすいという構造がある。
日本において「筋トレなんか絶対にやりたくない」「筋トレやってる奴はバカばかり」といった、筋トレという生活習慣およびそれを好む人々に対する強い嫌悪感を持ち、その嫌悪感を信念とも呼べる強度まで高めて生きてきた人々の中には、スクールカースト構造の中で、体育会系の人からネガティブな記憶を植え付けられた人々が少なくないのではないか、と感じます。
日本における「体育会系 vs 文化系」の対立を、より複雑にしている状況がもう一つあります。それは、近代以降、日本の組織論理を強力に支配してきた、体育会系礼賛ともいえる空気から生じている状況です。就職活動や出世競争において、露骨とも思える体育会系優遇を目の当たりにした経験を持つ人は少なくないのです。
この背景には「体育会系は礼儀をわきまえており、年長者を敬い、後輩を厳しく鍛える胆力も備えた人物である」という思想が、日本では相当の熱量をもって支持されている、という現実があります。上には歯向かわず、下には厳しく。言うまでもなく、こうした特性を持つ個人は企業経営者や中間管理職にとっては非常に有用な人材として認識されます。
つまりこれは、たんに「アメフト部はスクールカーストの頂点で、一番モテる」などといった、長い人生のうちのほんの数ページだけで回収可能な短い物語ではなく、人生の多くのページを占める長編物語として長きに及ぶスケールの物語だといえるでしょう。そしてもちろん、こうした風潮に不公平感や疎外感を感じ、体育会系ばかりが優遇される空気を苦々しく思っている人々もまた、日本人の中には数多く存在する、と僕は感じています。
体育会系 vs 文化系の対立構造もまた、日本における「使えない筋肉論争」を考察するうえで避けて通れない事実であると思います。
肉体を語る文脈の薄弱さ
ここからは「使えない筋肉論争」のまとめに入っていきます。
次に考えたいことは、
日本においては、筋肉や肉体を、言葉や哲学として語る文脈が極めて薄弱だ、ということです。この薄弱さは「筋肉や肉体を語るうえでの解像度を上げられない」という問題を引き起こします。
それは、この記事で繰り返し述べてきた「私、筋トレやってるんだ」と言った瞬間、彼ら彼女らの存在が、多くの日本人が抱いている薄弱な文脈に固定されてしまう、という現象のことです。「いや別にマッチョになりたいわけじゃないから」と申し開きたくなる、あれです。
日本にも、肉体と精神を統合しようと試みた人は存在しました。たぶん知名度としていちばん高いのは三島由紀夫でしょう。しかし彼の試みは、このミッションにおいて成功したとは言い難いと思います。
筋肉や肉体を語る文脈が薄弱だと、それらを高い解像度で解釈しようとする文化が育たず、結果として「体育会系」と「筋トレ愛好者」が混同され「ああ、どうせオラオラの体育会系の奴らでしょ。そういうの、うんざりなんだよね」などと一緒くたに嫌われてしまう、ということも起こります。
実際には「筋トレ愛好者」といってもそのありようは多種多様です。
「筋トレ愛好者」の中には、確かにバリバリの体育会系文化で育ち、そのマインドを隠さない人も存在する。しかしいっぽう「好きなことをとことんまで追求したい」という強い動機を持った、いわば「筋トレオタク」とでもいうべき人々も多数存在するのです。
この両者のマインドは根本的に異なることが多いのですが、しかし日本ではそれらを区別できるだけの文脈が希薄であるため、一緒くたにされてしまう、ということが起こります。これをわかりやすく例えると、もし「白人のアメリカ人」という文脈でしか白人アメリカ人を認識できない人がいたとしたら、その人は「白人のアメリカ人と一口に言っても、イタリア系やアングロサクソン系など細かな違いがあり、そしてそれは決定的な違いになりうる」という重要な事実を認識できないということになる、ということです。
「使える筋肉」とは、一体なんなのか?
では、ここまで考えてきた「使える筋肉」と「使えない筋肉」とは一体、なんのことなのか?
現時点での僕の、(仮)の結論は次のようなものです。
「使える筋肉」とは、
「なぜあなたはそんな身体をしているのか」「なぜあなたは筋肉をつけたいのか」と問う社会に対して、社会の多数派が納得するかたちで言語化し答えられるならば、それは「使える筋肉」になる。それは「あなたは逸脱していない」と社会からお墨付きを得ることに等しい。
そして、筋トレを継続的に行っている者、さらに、筋トレを継続的に行うことを検討している者。これら個人は「自分は社会の規範から逸脱するつもりはない」意志を、ことあるごとに示し続けなければならない、という社会的な圧力を感じることになる。
まとめると、日本における「使える筋肉」とは「社会の多数派による理解と承認を得られた筋肉」と言えるのではないか、というのが、現在の僕の考えになります。
逆に、もはやあえて言葉にする必要はないのかもしれませんが、
では「使えない筋肉」とは何なのか?
それは「社会の多数派による理解と承認を得られなかった筋肉」なのではないでしょうか。
おわりに
日本において、筋肉を語るための豊かな文脈を、人々はいつか獲得できるのでしょうか。
僕は、そんな問いを抱えています。
日本人のメンタリティに少なからぬ影響を与えてきた思想の一つとして、武士道があります。
武士道を今に伝える書物である「葉隠」からは、次のようなメッセージを読み取ることができます。
毎日、死の覚悟をしておけ。
そうしておくことで、いざというときにも迷わず、己の選択を引き受けることができる。
この考えにマッチョの生き方を当てはめてみると、いささか、相性が悪い気がしてきます。なぜなら、僕たちマッチョは、自分がなりたい身体を思い描き、ときに長期的な計画のもとにバーベルを握る。明日、人生が終わるなどとは、おそらく考えていない。どこかで、人生は、来週も、来月も、来年も続いていくと考えているふしがある。
これは「葉隠」が、現代に生きる僕たちに時を超えて伝えてくる武士道に照らせば、現代日本のマッチョは「覚悟の定まらない半端者」ということになるのかもしれない。
いっぽう、宗教改革の中心人物であるマルティン・ルターは、次のような言葉を残しています。
「もし明日、世界が終わるとしても、今日私はリンゴの木を植えるだろう」
この言葉には、利他の尊さと、人生を生き尽くそうとする意志が、静かに宿っているように感じます。
一見すると、その非情さのみが強調されがちな「葉隠」は、武士が布団の上で生涯を終えることは否定していないし、無駄死にすべきとも言っていない。婉曲的ではあるものの「悔いなく、人生を生き尽くせ」と言っているとも思える。
「毎日、死の覚悟をしておけ」という武士道と、
「たとえすべてが無に帰そうとも、無駄だと分かっていても、それでもやる」というルター。
僕は、日本人が筋肉を語るための豊かな文脈のヒントが、
この両者のあいだにあるなにか、に眠っているのではないかと感じています。
これが人生最後のトレーニングかもしれない、そう思い定めて、今日もバーベルに向き合う。
そして、
もし明日、世界が終わるとしても、それでもなお、僕はトレーニングをするだろう。
これらは、互いに矛盾するものではなく、近い場所に立つ態度なのではないか。
その二つのあいだに立ち現れる何かを、僕はこれからも見つめ続けていきたいと思っています。


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