僕は文筆家で、主に文章を書いて生きています。
そんな僕ですが、日課として毎日ボイストレーニングをしています。
今回の記事では、文章書きである僕がなぜ、話すためのトレーニングであるボイストレーニングを続けるのか。その理由と、僕の心のうちにある表現への思いを言葉にして置いておきたいと思います。
なお、僕が毎日、行っているボイストレーニングの内容については以下の記事をご一読ください。
自分のコンディションが測れる
ボイストレーニングを毎朝行うことで僕が得られているものの一つとしてあげられること。一つには、その日の自分がどのような状態であるのか、おおざっぱではあるが把握できるということがあります。
どういうことか説明します。これは僕に限ったことではないと思うのですが、たとえば前夜によく眠れなかったとか、前日たいへんに疲れるイベントごとがあったなど、ボイストレーニングに影響が出そうな出来事というのは誰にでもあると思います。しかし特にそういう明確な理由はないにも関わらず、どうもボイストレーニングでの発声がうまくできない、ということがあります。いつもならうまくやれることが、どうもつっかかる。不思議なもので、僕の場合、こうしたときはいわゆる「筆が進む」状態になることが多いです。
逆に、なぜかわからないがボイストレーニングが絶好調、という日もあるわけです。こちらも特に因果関係として考えうるような出来事に心当たりはない。なのに早口言葉も外郎売の難しい箇所も、すらすらと読めてしまい、おまけに大いに感情が乗ってとても気持ちが良い。こうした日は朝から充実感に包まれます。しかしこれまた不思議なのですが、こうした日は「筆が進まない」ことが少なくない。あれこれと意識が散漫になってしまい、心身の調子はいいのにもかかわらず書くことに集中できない。
このように、僕は毎日のボイストレーニングを、良かれ悪しかれその日に自分がどんなことを書けそうか、どの程度書けそうか、書けないならどんな類のアクティビティなら行えそうかを教えてくれる、ある種のものさしのようなイメージとしてとらえています。
これは僕が長年にわたって続けている筋トレにも言えることですが、これは遊離しがちな心を捕まえて身体に戻すという作業でもあります。僕は心のままに文章が書けるタイプの書き手ではなく、エッセイにせよ小説にせよ事前に緻密なプロットを組まないと書けないタイプです。
かなり抽象的な表現になりますが、ふわふわと浮き上がる心を身体につなぎとめることは僕にとっては欠かせない作業なのです。
「伝わらない言葉」の実体験
僕は若いころ俳優を目指していた時期があり、劇団で俳優や脚本書きとして活動していました。そのときに体験した出来事が、表現におけるスタンスの基盤をつくった面があります。
ボイストレーニングを一切、否定する俳優がいました。彼いわく、ボイストレーニングを行うと自然な身体表現が損なわれ、ひいてはリアルさを欠いた演技になってしまうとのこと。
演劇の世界にあまり関心を持っていない人が彼の主張を聞いたならば、俳優がボイストレーニングを一切やらないなんてありえない、と感じる人もいるでしょう。ですが、最近はどうなのかわかりませんが、こうした「ボイストレーニング否定派」「自然至上主義」ともいうべき人々は、僕が若かった頃の演劇界ではとりわけ珍しい存在というわけでもなかったと記憶しています。
少し補足しておくと、身体訓練をやり込むことで、身体訓練が「型」となってしまい、結果として自然な感情表現を妨げるという一面はたしかにあると僕は感じています。ですがそれは身体訓練への関わり方の程度の問題であり、一切の身体訓練を否定する人々の主張というのは、身体訓練が持つある一面をしょうしょう強調しすぎた結果として生じていたものだったのでしょう。
さておき。いざ舞台の本番になると彼の演技はまったく「機能」しなかったのです。彼の声量はあまりに小さく、さらに滑舌も非常に悪く何を言っているのか観客からは聞き取れない。この状況を例えて言えば、観客は耳栓をして一切の音を遮断して演劇を見ている体験に近いとも言えるかもしれません。つまり伝わらない。
舞台というのは、観客の反応はダイレクトかつリアルタイムに俳優に伝わります。ですので俳優は自分の言葉が「伝わってない」状況を痛いほど感じ取れてしまう。そして焦りが生じ、冷静さを失わせ、演技プランをめちゃくちゃに破壊してしまう。
この体験は僕に「伝わらない言葉」について深く考えさせる機会を与えてくれました。
伝わらないことを前提に研鑽を放棄したくない
僕は、文筆家としての書き言葉、話し手としての話し言葉、その双方において、
「わかる人にだけわかればよい」
「伝わらないことにも意味がある」
と言ったスタンスには立ちません。
理由はシンプルで、こうした態度は発達障害当事者である僕にとって高度すぎるのです。
僕にできることは、
最大多数に伝えるための表現を研鑽する。
伝わらない言葉に意味を持たせることを自分に許さない。
という、極めて愚直なものです。というか、僕にはこれしかできないのです。
僕は文章を通して人間の不完全さについて述べることがしばしばあります。
人間は、仲間ではない、とみなした存在に対して非常に冷酷になれる存在です。
そして、仲間かどうかを判断するための基準の多くは「話が伝わるか」に寄っている。話が伝わらなければ、そいつは仲間ではない、となる。
僕は自分について、孤独の中でしか生きられない人間だと思っていますし、「ともだちを百人作ろう」などといった情緒とは無縁な人間です。しかし、「あいつは仲間ではない」や「敵認定」されてしまうと生活するうえでさまざまな実害が生じてしまうので、自分の言葉が通じないという状況は、やはりまずいのです。
言葉とは必ず誤解されるものだ、と考える人もいるかもしれませんが、僕は自分が発する言葉の最後の一ミリまでこだわりたい。そのための身体を磨きたいと思っています。
発達障害と誤解
すでに言いましたが、僕は発達障害当事者です。
発達障害当事者は、とにかく誤解されやすい。
そして、誤解を解くために与えられる・設けられる機会もまた、定型発達者と比べたらおそらく極めて少なくなる。これは僕がこれまで生きてきて感じていることです。
僕は発達障害当事者として、誤解されやすい特性を持つ人間として、
誤解を減らすためにできることを探し続けています。
誤解していただきたくないのですが、僕は自分がやっていること、信じていることを他の発達障害当事者に勧めたり、あるいは押し付けたりするつもりはまったくありません。この記事で僕が述べていることは、あくまで個人的な価値観、ないしは好き嫌いの範疇の話です。やりたい人はやればいいし、やりたくない人はやらなければいい。それだけの話です。マイノリティの側が歩み寄るべきだ、などと言いたいわけではないのです。
誤解を恐れることは自己防衛ではないのか
「誤解を恐れること。それ自体が自己防衛ではないのか?」
と感じる方もおられるかもしれない。
そうかもしれない。僕が毎日ボイストレーニングを続け、他者との関係性において生じる誤解に心をとらわれる日々を送り、いかにして誤解を最小限にとどめるかにとらわれて生きることは、ただの自己防衛なのかもしれない。それは否定できないことなのかもしれません。
また、
「誤解されたなら、その誤解を解けばいいだけではないか」
と思った方もおられるかもしれない。
しかし、こうした考え方は「人は必ずわかりあえる」とか「同じ日本人同士、価値観は共有できる」となどといった世界観に基づいていることが多いと感じます。ですが僕は、人間関係というもの、あるいは人間という存在をそのようにはとらえていないのです。
実際には互いについて何も理解し合っていないのに、分かり合えた気になってしまうのが人間だし、誤解を解く機会を設けないままに、誤解したまま関係が終わるのもまた人間というものではないでしょうか。さらにいえば「日本人同士なら分かり合える」という言葉から始まる論旨の多くにはハイコンテクストへの暗黙の依存・前提が置かれていることが多く、ハイコンテクストを理解できない者を排除する構造があるが、多くの人はその構造を見ないことにしている、という一面もあると思っています。
発達障害当事者として半世紀以上を生きてきた僕は、このような視座に立って人間というものを見ています。
AI時代には身体性が不可欠になる
もうひとつ、僕が毎日ボイストレーニングを行うモチベーションの一つに、AI時代の到来があります。
20世紀、専業書き手の影響力が今よりもずっと大きかった時代はもちろん、21世紀初頭のインターネット黎明期においても、書き手の身体性や実在性は深く問われることはなかったと僕は思っています。
素顔も身体もさらすことなく、雑誌やWebサイト、ブログといった媒体で文章を書く。その文章が多くの人の目に触れ、文筆家として生計が成り立つ。そんな時代が過去にはありました。エッセイスト、コラムニスト、ブロガー、ライター、などなど様々な肩書が生まれました。
しかし今後、文章を生業とする人々のありようはますます大きく変わっていくことでしょう。すでに生成AIは人間が書いた「美文」を完全に再現できるレベルに達していると僕は感じています。人間の心に影響を与え、感情になんらかの変化を起こさせ、行動を促すこともできる。そうした文章を生み出すAIの能力は、少なくとも「それっぽい美文」という点では、人間の平均を越え始めていると言っても過言ではないのではないでしょうか。
著名な文学新人賞の受賞作の全文が、そのプロットに至るまでもが、すべてAIによって書かれていた――「著者」である人間が果たした役割といえば文学賞に応募しただけ――などという騒動が起こって物議を醸す。こうした出来事も、ほどなくして起こるのではないかと僕は考えています。
こうなってくると、過去の時代においては成立した書き手――
本当に実在しているのかよくわからない。
本当に一人で書いているのか、わからない。
実は複数人によるプロジェクトではないのか。
――こうした書き手は、もはや成立しなくなるのではないでしょうか。
それは筆一本、文章一筋だけでは「人間の証明」にならなくなる、ということです。
言い換えれば、これからは、文章だけでは「その人が本当にそこにいる」証明にならない時代になるのではないか、とも言えます。
「書き手は文章一本で勝負すべき。それ以外の活動はするべきではない。筆が乱れる」
長らく珍重されてきたこのような教示は、新しい時代においても書き手を守ってくれるのでしょうか。どうも僕にはそう思えないのです。
そうなってくると、どうしてもこれからの書き手には身体性と実在性が求められることになるのではないか、と思えてきます。書き手も積極的に「話し言葉」の空間に出ていき、話し言葉を使う必要に迫られていくのではないでしょうか。もちろん、このやり方は千差万別であり、Vlogでプライベートを売り物にしたり、激辛焼きそばを食べるさまを撮影して面白おかしく編集して公開したりすることだけが最適解というわけではないでしょう。
ただ、どのような空間であれ、どんなフォーマットであれ、
僕はその時、文章だけでなく、声においても、身体においても「伝わらない言葉」を使う表現者でありたくない。そう思っているのです。
以上が、僕がボイストレーニングを毎日続けている理由になります。
なお、僕が毎日、行っているボイストレーニングの内容については以下の記事をご一読ください。
おわりに
言葉は誤解されるものかもしれない。
それでも僕は、誤解されない努力をやめることはありません。
伝わらないことを「味」として語るほど、僕は優秀でもないし強くもない。
だから今日も、声と身体を磨き直しています。


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