恋愛と発達障害。
これは、あまり見かけることがないテーマではないでしょうか。
女性当事者からの発信は散見されますが、男性となると極端に少なくなる。
今日は、発達障害当事者である僕の恋愛観と、これまでの恋愛を思い出しつつ、言葉にしたいと思います。
日本の男性にとって、なぜ恋愛は語りにくいことなのか
発達障害、
男性。
こうしたキーワードが揃うと、どうしても、
「恋愛とは縁遠い人」、
というイメージを持つ人も少なくないのではないでしょうか。
この背景には、発達障害当事者に限らず、日本では男性が恋愛を語ることが、はばかられる風潮があると、僕は思っています。
「なんだよ、自慢話か?」
と、怪訝に思われたりする風潮は昔からあるといえますし、
加えて近年の風潮としては、
語るエピソードの内容によって、
男性側が一方的な加害側とされる、という状況も増えてきている。
さらには、男性が「うまくできなかった」系の失敗談を語ることが、
「男のくせに弱音を吐いている」といった嘲笑の対象として回収されやすい、という背景が、日本の社会には存在する、と感じています。
さらに、これが発達障害当事者の男性となると、より複雑になってきます。
「恋愛ができているならお前は強者だ。お前は仲間じゃない」
といった無言の線引きを受け、当事者のコミュニティ内における立場が悪くなってしまったり、
あるいは、恋愛を語ることで、自身の生きづらさが不可視化されてしまったり。そうした空気があるようにも思えます。
ちなみに、僕が当事者コミュニティという空間に懐疑的というか、乗り切れない部分を感じる人るの理由は、当事者コミュニテイが持つこうした構造的課題です。
この記事の前置きとして、日本にはこうした「男性が恋愛を語っても得をしない構造」があるといえるのではないか、という点を挙げておきたいと思います。
ASD、ADHD、恋愛
さて、自身について言えば、僕も正直、恋愛というものは得意ではない、といえます。
これは少々、ドライすぎる表現かもしれませんが、
恋愛は、脳の使い方として、非情に高いコストを強いられる交流である、と、
僕自身、感じていることは否めません。
ただ、生来の制約はあれども、僕はこれまで、おそらく「人並み」と言える程度には恋愛にコミットした経験を持っているとは、言えると思います。
この背景には、別の記事でも述べているとおり、
僕がASD特性とADHD特性の両極性が共存するタイプの発達障害当事者であること、
加えて、いわゆる「毒親」のもとで育ったことが大きいと思っています。
これらについて少し丁寧に説明します。
様々な発達障害当事者を見ていて思うことは、恋愛に対して強い苦手意識を持っている人は、ASD特性が強めに出ている人に多いと感じることがあります。
恋愛という交流を行うためには、
特定の時代における、流行、場のTPO、相手によってコミュニケーションの質を調整する必要性。
こうした非明示的な社会的コンテクストをあらかじめ理解し、その上で最適に近いふるまいを求められる場面が恋愛には多い。こうした社会的活動は、ASD特性が強く出ている人にとっては、深刻な苦手意識を喚起させられることだと言えます。僕もASD特性を持つ身なのでよくわかります。
要するに、恋愛とは、
ASD特性の人にとっては「台本なしで、常に即興で空気を読みつつ演じる演劇」に近い活動なのだと思います。
いっぽうで、ADHD特性が強めに出ている人の場合「人と関わる仕事が好き」と述べる人が少なからず見受けられるように感じています。そして、そうした人は恋愛への苦手意識もさほど強くない。もちろんこれは、すべてのADHD特性を持つ人に当てはまることではありません。
さておき、もちろんこれは、優劣の話ではありません。
ある場面は得意に見える人も、別の場面では破綻することもある。
それに、恋愛を「こなせる・回せる」ことと「消耗しない」ことは別です。
さて次に、「毒親」の元で育ったことと、恋愛をするためのコミュニケーション能力の獲得に、どのような関係があるのか、について言葉にします。
僕の場合は、親を含めた周囲の顔色をうかがい、最適なリアクションをする能力を伸ばすことが、生存の条件だった、ということです。一見すると、これは良い能力のようにも思えますが、この能力を習得した、いや、習得せざるを得なかったこと、そしてその能力を行使して生きていくことは、後年になって僕を苦しめることともなっていきます。
こうしたことはもしかすると、発達障害が社会的に認知され「合理的配慮」が社会に期待できるようになり、発達障害の特性への理解が一般レベルで進んでいく時代においては、もはや起こり得ないことなのかもしれません。
いずれにせよ、僕は「あの子は発達障害だから、空気が読めないのも仕方ない」という免責のラベルを、僕は社会の中で得られなかった。そのことが、僕にとっては「皮肉にも」恋愛も可能にする、カッコ付きの「コミュニケーション能力」として僕に内在化された、ということなのだと思います。
恋愛における、僕の失敗
このように、ある種、発達障害者の経歴としては特殊かもしれない生い立ちから、僕は、世間がコミュニケーション能力と呼ぶ、甚だしい消耗という代償付きの、社会に過剰適応するための異能を身につけたわけです。
しかし、だからといって、僕にとって恋愛はとても難しい交流である事実に代わりはありません。恋愛における失敗は枚挙にいとまがありませんが、一つ例をあげます。
当時付き合っていた彼女と、付き合い始めて間もない頃、
カラオケに行く機会がありました。
僕はもともと歌うことが得意ではなく、歌える曲も限られています。
そのうえ、なぜか自分でも不思議なのですが、好きな曲の多くが「男女の別れ」をテーマにした歌ばかりなのです。
恋愛が始まったばかりの、まだその輪郭すら定まらない時期に、別れの歌ばかりを歌う男。
僕としては、それは、たんに好きな歌を歌っているだけであり、そのことによってなにか言外の気持ちを伝えたい、などという意図は全くない。
でも、一般的な女性であれば、次のように感じても不思議はない。
「元カノを、まだ引きずってるって言いたいの?」
「もしかして、私との将来を悲観している?」
「言いたいことがあるなら、ハッキリ言いなよ」
僕が何も意図していなくても、あるいは何かを意図していたとしても、
恋愛という文脈では「選ばれた歌=メッセージ」
として解釈されやすい。
そこからさらに、
「この人とはなんか合わない」
「恋愛に向いてないタイプなんじゃ?」
へと、感情が発展することも、無理からぬことです。
なお、恋愛に向いてない、という観察は、極めて的を射た正確なものだといえます。
それはともかく、こうした場面は僕にとって本当に難しい。
だからといって、
「僕は別れの歌ばかり歌うけど、それに意味はないから」
と前置きしたとて、それが解決策になるわけでもない。
裏の裏まで、先の先まで、読んで行動しようとすると、脳が過負荷でショートする感覚を覚える。そして疲れ切った僕は、ビリー・ジョエルの「Honesty」などを一人歌っていたりする。
恋愛では「意図していないメッセージ」が最も強く解釈されてしまう場面が多い。
それに恋愛では「説明責任」が発生しにくい。相手が「ちょっと、それどういうこと?」などと聞き返してくれることは、個人的にはありがたいし、僕はその人に対して「誠実な人」という印象を受けることもありますが、こんなことは稀です。誤解されても、説明や訂正の機会が得られることは基本的にない。恋愛においては、沈黙すら「メッセージ」になってしまうことが多々ある。
これは、発達障害当事者にとっては、非常に高度な能力が求められる、あまりに分が悪すぎる設計だといえます。
こうした経験を重ねるうちに、僕は「うまくやろう」とすること自体を、少しずつ手放していくようになりました。
ここまで言葉にしてきて、一つ思うことがあります。
発達障害当事者男性に限らず、恋愛における数々の失敗体験を重ねると、一部の男性は、
「女は怖い」
「女は理解不能だ」
といった恐れの感情を抱きやすい。
そして、恐れの感情が転じて、自己武装・強化の方向に進むと、それはミソジニーの形をとりやすい、ということが言えるかもしれません。
しかし、僕の場合はそうならなかった。
なぜだろう、と考えてみると、すでに述べたような生い立ちを経たことによって、僕は人生早期において、
男女以前に「人間は分かり合えない」という感覚を得たことによるのだ、と思い至りました。
神経発達特性による恋愛の困難さ
ここまで言葉にしてきた、発達障害当事者が恋愛に向き合う際の困難さは、主に「社会的コンテクストを読み取ることの難しさ」に基づくものでした。
日本は「ハイコンテクスト文化」と言われます。
ハイコンテクスト文化とは、ざっくり説明すれば、
明文化されたルールよりも、
言葉の背景にある文脈、空気、状況、関係性といったものが重視され、
暗黙の了解や「言わなくても理解しろよ」という
「空気を読む力」が強く求められる文化のことです。
発達障害当事者にとってこうしたハイコンテクスト文化に適応することは難しいことが多いことは、いまさら言うまでもありません。
しかし、発達障害当事者が恋愛に困難さを感じてしまうことが多い要因はハイコンテクスト文化への適応の困難さだけに由来するのではなく、特性のばらつき、言い換えると神経発達特性の凸凹による困難さも深く関係している、というのが僕の考えです。
この章は少し、僕個人の特性に寄った内容になり、汎用性を欠く内容になります。すべての発達障害当事者に当てはまることではありません。
たとえば、こんな話を聞いたことがあります。
「アメリカのFBIの採用試験には、次のようなテストがある。
候補者は、ビールの空き缶やソファ、ギターなど、雑多なモノが置かれた部屋に、ほんの短い時間だけ滞在するよう命じられる。
その後、部屋から出たところで、
『部屋の中には何があったか? 可能な限り詳細に答えよ』
と問われる」
実際にFBIの選抜過程でこのようなテストが行われているのかどうか、僕は知らないのですが、まあ、ありそうな話ではあります。
僕がもし、このようなテストを受けたとしたら、結果は壊滅的なものになるでしょう。
僕は発達特性の凸凹の観点から見ると、こうした「目に入ったものを記憶する」能力が極端に乏しいのです。
ちなみに、僕のこうした、弱点ともいえる特性の真逆には、映画「レインマン」で描かれたような、
一瞬見ただけで数百本にもおよぶマッチの本数を正確に数えられてしまう、
いわゆるサヴァン的な能力を持つ人々も存在します。
それはともかくとして、ここでそろそろ、
「FBIの採用試験と恋愛に、なんの関係があるんだ?」
と、いぶかしく思われた方もおられるかもしれません。
恋愛においては、
「髪切ったんだね」
「今日の服、素敵だね」
など、相手のルックの微細な変化に気付き、それを、
親愛、喜び、感謝の言葉として伝える。
こうしたことも大事なことです。
これらは、マナーや気遣いというよりも、
「気づいてもらえた」という感覚、
少々味気ない表現をすれば、承認された欲求の感覚そのものを相手に与える行為でもあります。個人的には、男女に関係なく、こうした欲求を人は持っていると僕は思っています。
こうしたことも、恋愛においては、とても重要なことなのです。
そして、僕の場合、こうしたことを上手にこなす能力は極めて限定的なのです。
しかしいっぽう、僕の特性として、
「耳から入ってきた言葉を理解する特性」、
については、おそらく定型発達者の平均よりも高い。
この特性によって、僕は助けられてきたともいえます。
以上、極めて個人的な特性を持ち出しての説明になってしまいましたが、発達障害当事者が恋愛について感じる困難さを理解していただくうえで、何かのきっかけとなれば幸いです。
発達障害当事者同士の恋愛
「発達障害当事者同士の、恋愛における相性はどうなのか?」
これは、しばしば散見されるテーマです。
ただ、これは簡単に答えることは難しい問いだと思います。
たしかに、カップルが互いの特性を理解し、困難さを分かち合い、どういう場面で助けが必要なのかを以心伝心に近いベストタイミングではかり、支え合うことができるつながりは、互いにとって良い関係性なのかもしれない。
実際に僕が経験したこと、その人生の一ページを、言葉にします。
「ごみ屋敷」という言葉は、今ではすっかり一般的になりましたが、僕は
「軽度ごみ屋敷」とでもいうべき部屋に住む女性と付き合ったことがあります。
「ごみ屋敷」というと、天井近くまで雑多にモノが積み重なった、安全性の面からも、なかなかヤバい状況を想像する人も少なくないのかもしれません。ただ、その女性の場合は、モノの高さはだいたい、くるぶし程度までの高さに留まる。
念のため補足しておくと、この女性は生活破綻者というわけではありません。
軽度ごみ屋敷から一歩外に出れば、外の世界ではごく普通に働き、勤務先も、多くの人が聞けば「名前くらいは知っているだろう」と思える企業でした。
彼女の家には一匹の猫がいました。
猫は、足元が安定している場所を選んで過ごすようでした。
ただ、部屋の床には少しずつモノが置かれていき、次第に床が見えなくなっていく。
それにつれて、猫が長く留まる場所も、自然と限られていきます。
自身の中のASD特性がそうさせるのか、わかりませんが、僕は部屋をある程度、片付けておくほうが落ち着くタイプです。床にモノを直接置くのは、なんとも落ち着かないのです。そんなわけで、彼女の家に行くたびに、積み上がったモノを片付けていました。床が再び見えるようになり、猫も大喜びです。でも、またほどなくして、モノがくるぶしの高さに積み重なる。そしてまた僕は片付ける。
彼女の内面のなにか、が許容する高さ、それが、くるぶしの高さなのでしょう。
そんな感じで、掃除は得意とは言えないが床に直接、モノを置くのはちょっと居心地が悪いという、ある種の几帳面さを備えた僕と、彼女との間では、お互いにとって無理のない共生関係があったように、懐かしく思い出します。
彼女との関係性の中で、僕が得られたものは、
欠点を抱えたまま成立する関係性が存在しうること、
だったのかもしれません。
でも、このようなケースだけではないでしょう。
逆に考えると、カップルの互いが発達障害当事者だった場合、
苦手な面を補い合う、
という支え合いが難しくなる構造になってしまうことも少なくないかもしれない。
発達障害当事者が苦手としやすい、コミュニケーション面。
そうした、苦手な面を補い、社会との橋渡し役になってくれて、生きづらさを軽減できる特性を備えた個人となると、やはり定型発達者のほうがいいのでは? という仮説も成り立つかもしれない。
恋愛とは、言語化しがたいもの、
もしかしたらプリミティブと表せるかもしれない情緒や衝動、
相手に期待する社会的役割、
相手のルック、
そうした要素が複雑に絡み合ったファンタジーであると、僕はとらえています。
ただ、
「社会的役割を最初から意識して恋愛相手を選ぶなんて、ドライすぎて抵抗がある」
「恋愛のパートナーは仕事上の相棒や『戦友』とは違う」
などと、違和感を感じる人も少なくないはずです。
こう考えると、何が正解なのか、わからなくなってくる。
ただ一つ、僕が言えることは、
相手が「発達障害当事者かどうか」という事実が、発達障害当事者にとって重要な指標であると考える人がいることは理解できるのですが、最後はあくまでも「相手が人間として、どんな人なのか」に帰着するのではないか、というのが僕の考えです。
おわりに
振り返ってみると、
僕が「恋愛の失敗」だと思ってきた出来事の多くは、
ただ、人を大切にしようとして、やり方を間違えただけだったのかもしれません。
発達障害当事者は恋愛が苦手なことが少なくない。
この傾向は確かにあるのかもしれない。
でも、恋愛が得意でなくても、人を大切にすることはできるのではないか。
無理に「恋愛向きの人間」になる必要はない。
自分の特性を理解したうえで、距離、期待、関わり方、を選ぶことはできるのではないでしょうか。


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