「老婆心ながら」という言葉に、なぜ身構えてしまうのか

「老婆心ながら」

今日の僕は「老婆心ながら」というフレーズが気になっています。

「老婆心ながら」とは、
「老婆心ながら申し上げますが……(以下略)」、
「老婆心だと思って聞いてください……(以下略)」

などの文脈で使われる前置きフレーズです。

つまり、
「私があなたにアドバイスしてあげますよ」
「余計なお世話かもしれませんが聞いてください」

などの意図を持った、相手に、自分の意見に耳を傾けることを促す言葉です。

ここで相手が、
「いや必要ないから」
とか
「うっせぇわ」
といった、明確な拒絶の意思表示をしない限り「老婆心ながら」と言い出した側が一方的にしゃべるターンの幕開けのセリフ、ということになります。

さてこの「老婆心」という言葉のイメージを紐解いてみると「年老いた女性が、経験に基づいてつい口出ししてしまう心」という意味になります。現代の日本においても、この表現にネガティブな意味は感じられることはほぼない、と僕は感じます。

「老婆」は年老いた女性を表すには、現代日本においてはストレートすぎる表現といえます。それに「姥捨山」や「後家」や、民俗学に見られる「老女の妖怪化」など、日本の歴史的・文化的背景などを踏まえると、現代の日本では「老婆」という言葉は事実上、蔑称に近いニュアンスを帯びていると僕は思っています。

たとえば、もし政治家が、
「先日、地元選挙区を回らせていただいていたときに、ある老婆の方から『頑張って』と声をかけていただきました」

などと言ったら、炎上して謝罪と訂正を求められるか、または「あいつは無学だ。言葉を知らない」となじられるか、どちらかになるのではないでしょうか。

つまり、事実上の蔑称である「老婆」を自身になぞらえる「老婆心ながら」という表現は、自分を下げている。つまり、話しかける際にまず、自分を下げる、へりくだる表現だ、ということです。

この言葉が使われる場面における話し手の意図を細かく見ていくと、以下のようになるでしょうか。

  • 「私は自身を年老いた老婆としてなぞらえます」(自分を下げる)
  • 「老婆だから、細かいことが気になって仕方ないのかも」
  • 「私は年を取り、自他境界があいまいになっているのかも」
  • 「だから、若い皆さんにとってズレたことを言うかもしれない」
  • 「それでも言わずにはおれないので、言わせてもらいます」

「老婆心ながら」という前置きフレーズは、こうした意図の流れによって構成されていると、僕は感じます。まず自分を下げることで謙虚さを示し、相手にとって受け入れやすくする。

相手が自分よりも強い権威や権力を持つ者である場合、これはおそらく有効に機能する場面が多いのではないかと思います。実際、歴史の重大な局面においても「老婆心ながら」は使われてきたのかもしれません。

まともで誠実な「老婆心ながら」は希少

話を現代に戻します。ところが困ったことに、これは僕だけが感じていることなのかもしれませんが、この「老婆心ながら」を、まっとうな、本来の使い方、つまり、
「たとえ嫌われようとも相手の幸せを願うがゆえに進言する。ときに命をかけて」という決意のもとに使っている人に、僕はほとんど会ったことがないのです。

このことを反映してか、この「老婆心ながら」に「うざい」「うんざり」といったネガティブな感想を抱いている人は少なくないのではないかと感じています。

一番多いパターンは、単なる「説教」に入る前の、話し手側の心理的・身体的な調整・調律を目的とした準備運動(アップ)でしょうか。さらには、儀式でしかないケースもあります。この亜種として「お前のためを思って言うけどな」とか「あなたのために言うけど」などがあります。

このパターンの場合、話し手は聞き手よりも社会的に優位なポジションにあることが少なくなく、話し手の心中には、
「私はあなたよりも、ものを知っているからね」という知的優越感が前提に置かれていることも多いのではないかと推測します。

次に多いパターンは「老婆心ながら」の表現を拝借していながらも、その実は「私のことをわかってほしい」や「私はあなたよりも優秀な人間だ」といった自己主張のケースでしょうか。それならそうと最初から、まわりくどい表現を使わずハッキリと言葉にしてほしいと、発達障害当事者の僕としては、つい感じてしまう、そんな場面です。

あとは、なんとも残念な「老婆心ながら」の使われ方として、この気の毒な老婆心は、あまつさえビジネスにおけるセールストークの端緒として使われることすらあります。その文脈を要約すれば次のような表現になります。
「老婆心ながら言わせてもらいます。このままではあなたは不幸になりますよ。その状況を打開するためにはこの商品が……(以下略)」。

ここでは老婆心が、不安と恐怖を演出し、その回避策としての消費行動を促すための小道具として用いられています。

僕は「老婆心ながら」という表現を、このように見ているので、誰かが「老婆心ながら……」と言い出したら、僕はいつも、表情こそ温和かもしれませんが、心のなかでは緊張を高め、ファイティングポーズを取る準備をします。

ここまで、言葉にしたことをまとめると、

「老婆心ながら」という言葉は、表面上は「へりくだり」を装っているが、
実際には発話権を一方的に確保することの宣言であり、
相手の拒否権を認めない傲慢さを表明する装置として機能してしまっているのではないか、
そしてその「傲慢さの正当化」は、たとえばビジネスや、その他、本心を隠して何事かを行うスキームと好相性であるため、そうした場面で用いられるケースも増えたのではないか。

といった疑問や違和感を、僕は感じている、と表せます。

ここで僕が疑問に感じたのは、では、いつから「老婆心ながら」は、僕から見て、こうもいかがわしく、ときに悲しみすら感じさせる表現になってしまったのか? ということです。

少し調べてみたところ「老婆心」という言葉の起源は中国にあり、そして「老婆心ながら」を前置く使い方が見られるようになったのは江戸時代ごろのようだ、ということがわかりました。

もっと学究としての熱心さが僕にあったならば、このトピックをとことんまで調べてみたい気持ちもあるのですが、ADHD特性を持つ飽きっぽい僕は、そろそろ、この話題から離れたくなってきているというのが、正直なところです。

「老婆心ながら」の現在地と未来

ここまで「老婆心ながら」について、僕が感じている違和感や疑問を言葉にしてきましたが、これは、特に若い世代のなかで強い影響力を持ち続けている、ネオリベ風の思想とは相性が悪いと僕は思っています。

つまり、年上世代が「老婆心から言うけどね」と語りかけるとき、若い世代は表向きは黙って聞いているかもしれませんが、心中ではこのような問いを年上世代に投げかけているのではないでしょうか。

「で、あんたらは、どんな結果を残したの?」、
「あんたらが作ったんだよね? この壊れた社会をさ」

このような、若い世代からの問いかけに正面から答えうるだけの強度を持った哲学を、僕を含めた年上世代は持ち合わせていないのではないか、と僕は感じています。

これが「老婆心ながら」の現在地だと僕は感じます。

では、「老婆心ながら」の未来はどうなるのか、どこに進んでいくのか? 僕にはなんとも答えがありませんが、すでに述べてきたように、このフレーズは本心を明らかにせず、なにごとかを図るには便利なツールと言えますので、もしかしたら、限定的にであれ若い世代にも受け継がれていくものなのかもしれません。

おわりに

最後に、
ちなみに「老婆心ながら」の変種ともいえるパターンもいくつか、僕たちが生きている現代の日本には確認されているようです。お笑いコンビであるジャルジャルのコントの演目に、
「『親父の小言だと思って聞いてよ』がだんだんムカついてくる奴」
というものがあります。

「親父の小言だと思って聞いてよ」的なフレーズは、実際に僕も、社会の中で生きてきて何度も耳にしたことがあります。これは自身を「老婆」になぞらえる「老婆心ながら」と同じ構造を持っている、と僕は思います。

現代日本においては「親父」という言葉には絶滅した種という趣があるし「おじさん」は完全に、揶揄や蔑視を含んだラベルとして使われやすくなった、と僕は感じています。自分を下げる、かのように見せかけてのマウンティング、としての「老婆心ながら」は、形を変えて残っていくのかもしれません。

今回、僕が置いていく言葉が、僕とは異なる勉強熱心な誰かにとって、
何かのヒントになれたら、嬉しく思います。

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